『自己責任とは何か』 読了

天気が芳しくないのにかこつけて、昨日買った本を読んだ。今のところ、読書の秋。
「自己責任」とは何か (講談社現代新書)

「責任」という言葉自体は古くからあるらしいが、今の意味で使われ始めたのはやはり翻訳語としてのようだ。はじめの頃は「負担」とか「応答」などとも訳されていた。あいだをとって(?)「応分の負担」と訳しておけば良かったんじゃないかと思う。明治20年代に法律用語として「責任」が定着したらしい。「責」の字には税の取り立ての意味があったそうで、responsibilityとは、離れてしまうけれど、法律用語として使われるからには、当時の政治のあり方を反映するだろう。


この「責任」の頭になぜ「自己」が付くのか?は、この本の主旨ではないらしく、明確にかかれていないが、この「自己」は言い換えれば「個人的」とか「私的」とかいう意味らしい。つまり「自己責任」という言葉の裏には「国家は責任をとらないよ」という弱者切り捨てが透けて見える。



丸山真男の分析によれば、明治以降、精神的権威としての皇室と、政治的実権者としての行政府が一元化されたために、構造として絵画、音楽、文学、服装、髪型に至る、ありとあらゆる私的領域にまで国家が介入することになった。そして、国益とは何かを事実上決めていた官僚は、逆に、私的利害を、これまた際限なく、国家のためと欺くことができた。つまり、官僚は、いつでも既成事実を捻出できる一方で、制度上権限がないのをたてに、いつでも権限に逃避できた。言い換えれば、完全に無責任だった。


立花隆の本にもあったが、今現在の官僚体制はなぜか1940年に作られたままらしい。1940年体制というそうだ。戦争に臨んで作られた体制をそのまま転用して今に至っている。「改革」「改革」と言っているが、それは、この40年体制」を改革しなければと言っているわけで、一旦事が起これば、官僚の対応が、戦時中と何も変わらないのも無理はない。



官僚や政治家が、責任を人質になすりつけるだけでなく、なぜ一般の人までがむかついたのか?鴻上尚史が書いていたが、あの三人のおかげで、いったい迷惑を被った人がいたのか?今井さんや高遠さんの本の読者レビューに「・・・それはそうと4万円の飛行機代払ったの?」というのがあって、さすがにあさましい。最初は20億とか言っていたんじゃないのか?政府が役に立たなかったのは明らかだ。政府の力で解放されたなら、現地の契約カメラマンに第一報がもたらされるはずがない。



確かに役人と政治家は無駄な努力と、努力のフリくらいはしただろう。しかし、一般人は何にもしてないでしょ?なぜあんなバッシングが起こったか?ホントは何の迷惑も受けていないのに、迷惑を受けたと感じるのはどういう心理なんだろうか?丸山真男の説のように、内面に自発的な規範を持っていないので、いまだに、国家権力が同時に精神的権威になってしまっているのだろうか?とうてい信じられない。むしろ、内面の規範を持たないまま、強い精神的権威が失われたので、「タテ」構造が暴走しているのではないか?いじめ社会に生きる現代の若者にとって「目立たないこと」「みんなと違わないこと」は重大なテーマではあるらしい。一番上にあるのがデマでも何でもとにかく、「タテ」ならびに結びつきたい。そこからはみ出たくないということ。



前述のアマゾンのレビューで高遠さんの活動を「自分探しをしながらのボランティアなんて迷惑千万」と評した人がいた。とにかく感覚が「タテ」なのだ。人助けするには人の上に立てといいたいのだ。ヨコのつながりとしてのボランティアなんて想像もできない。自発的な動機で活動している高遠さんのような活動は、この人にとってはタテの権威に属していないので「迷惑千万」になるらしい。



政治的権力と精神的権威がごっちゃになりがちな社会であるために、すべてを「タテ」の構造の中で理解しようとしてしまう。実際には権威の前で、個人は対等であるべきだ。今回の事件で、実際に「責任」を感じていたのは、高遠菜穂子さんだけだったのではないか。なぜなら、「なりたい自分になる」自分探しは、いいかえれば「内なる規範を探す」こと。規範は、約束だから、そこにこそresponsibilityが存在する。空港にプラカードをもって「自己責任」を叫んでいた連中は、「責任」の意味も理解できておらず、その連中に頭を下げている高遠さんだけが、「責任」を痛感していたというパラドクスに、私は彼女が日本社会を出て行く姿を見た。あの瞬間、彼女は日本に帰ってきたのではなく、出ていったのだと私は思った。


この本は、「高校生にもわかりやすく」と書かれたせいか第一章が、「恋愛の自己責任とは?」になっている。面白いのは、恋愛において自己責任を果たしているのは、援助交際の中高生だけといえるところ。誰にも迷惑をかけず、自己資本率100パーセントの肉体を提供し、互いに納得した対価を得ている。こんなに帳簿がきれいな恋愛は他に類をみないはずだ。


こう考えていくと、「自己責任」は、資本主義の概念であることが分かる。バッシングの群れの中には、援交ギャルもいたかも知れない。論理上、彼女らは「自己責任」を口にする資格があったわけだ。