気になる言葉

郵政民営反対派のひとり、平沼赳夫がテレビで、「党内民主主義」という言葉を使っていたのが気になっている。自由民主党にあっては、党の内外で民主主義が違うのか?あるいは、党内だけで通用する(?)民主主義があるのか?
それで、一応検索してみたのだけれど、まずヒットしたのがここだった。トロツキー(!)の文章だ。彼は

このような「党内民主主義」論は実際には、「システムとしての党内官僚主義の理論的定式化」であると看破している。

のだそうだ。
これは、ちょっと古すぎるので、もうチョイ探ってみていると、自民党国会対策委員長中川秀直という人が、東大学長の佐々木毅という人の文章を引用しているサイトがあった。私としては

党内民主主義は尊重されるべきであるが、それは選挙の『前に』、国民の審判を受ける前に十分にその実をあげるべきである。それというのも政党は所詮国民全体の民主政治の一手段であり、党内民主主義を国民全体の民主政治に優先させる根拠はないからである。

と、こういうことを誰かちゃんとした人が言っていないものかと、検索していたわけだった。自民党国会対策委員長がこういうことをずばっと言っているなら、けっこうではないかと思って、よくよくみると日付が3月である。平沼赳夫が「党内民主主義」発言をしたのは、前の日曜日。この人たちは何をしてるんだろう?中川秀直氏はもしかしたら、「あの文章、見つからなきゃいいけどなぁ」とか思っているのかも知れない。それとも、書いたこと自体忘れたか?
一応、ブログみたいな感じで全部引っ張ってきて載せておきますが、読みたくない人は、とばしましょう。

1、東京の「時代を読む」で佐々木毅・東大学長が「郵政民営化と政治迷走劇」を書いている。

 「自民党郵政民営化の取扱いにおいて、民営化の具体論に入るどころか、そもそも論で立ち止まっているように見える。内閣との調整は進まず、迷走劇の様相を深めつつある。日本の政治において最も厄介な問題は与野党の関係にあるのではなく、内閣と与党との間の不協和音にあることを改めて示す実例である。当事者たちが如何に張り切ろうと誠にうんざりする事態である。前回の総選挙は政権公約型選挙とも呼ばれ、郵政民営化小泉政権の最も重要な政策目標として政権公約の中に掲げれられていた。従って、この方針はそれなりに国民の審判を受けてきたわけであるが、今頃になってもこの案件について内部調整がつかないということであるとすると、そもそも国政選挙にどんな意味があるのかと疑いたくなる。これがうんざりする理由である。

 政権公約型選挙とは、約束したことは実行することを旨とする一種のルール型選挙である。自民党郵政民営化をやりたくなければそもそも約束などしなければよかったであろうし、誰も無理に約束してくれと頼んだわけではない。そも代わり一旦約束して実現できなかった場合の責任は極めて重い。その取扱いによっては当然重大な政治的帰結を伴うのは当然のはずである。こうした視点を抜きにして、郵政民営化の是非だけを論じていれば済むといった考えは政党政治の基盤を自ら危うくするものである。言うまでもなく、政党政治は『議員たちの王国』を意味するのではなく、総選挙での約束を根拠とした国民の意向に最終的な立脚点を持っている。政党政治は、放っておけば議員たちが自らの意向を振りかざして政策をいじくりまわす『議員たちの王国』になる恐れがあることは古くから知られており、総選挙や政権公約はそれに歯止めをかける役割を持ってきた。政党政治は議員たちの一定の規律化なしには不可能であり、この問題を解決することなしにはリーダーシップの問題も、政党の統治能力の問題も先送りになってしまう。

 ここで問題にしているのは郵政民営化をめぐる異論反論そのものではない。そうした異論反論があったのであれば、何故総選挙の前にそれを明確にし、政権公約違反といったことになるのを防止しなかったのであろうか。恐らく、これに対しては事後に異論反論を述べるつもりであったと答えるに違いないが、こうした考えそのものが眼前に見るような混乱の最大の原因なのである。党内民主主義は尊重されるべきであるが、それは選挙の『前に』、国民の審判を受ける前に十分にその実をあげるべきである。それというのも政党は所詮国民全体の民主政治の一手段であり、党内民主主義を国民全体の民主政治に優先させる根拠はないからである。党内民主主義がいつでもどこでも最優先であるべきだという議論はその限りにおいて間違っている。又、その種の議論には議員たちが国民から選挙で白紙委任を与えられたといった考えが潜んでいるが、こうした考えは今や到底受け入れられるものではない。

 郵政民営化政策についてどのような評価を下すにせよ、郵政民営化抜きの小泉政権というのは国民的政治基盤がないに等しいであろう。従って、郵政民営化問題について決着をつけることができなければ、自民党は自らの政権を崩壊に導く決断をすることになる。最大与党の反対によって立ち往生したというのでは解散・総選挙にも正当性がない。それはいわば家の中の不始末の問題である。当然、小泉政権がその存続をかけて強行突破を図ることは予想されるところである。そこから新たな出口の見えない迷走劇が他党を巻き込んだ形で展開されることになるかもしれない。とかく迷走劇にはシナリオがなく、面白いという説もあるが、基本的にはうんざりした話のなれの果てにすぎない。うんざりした話からすばらしい帰結が出てくるという奇跡を期待するほどわれわれはもはやナイーブではない」。

 この氏の評論のキーワードは「うんざりした話」である。何が「うんざりした話」かというと、政党政治の根幹の原則が踏みにじられていることにある。政党政治の根幹とは、総選挙で民意に約束した政権公約を実行することである。先の総選挙で、自民党は「郵政民営化」を掲げる小泉総裁の下で国民の審判を仰ぎ、評価を得たからこそ政権公約を履行する責務を負っているのである。にもかかわらず「郵政民営化反対」という「そもそも論」の前に時間がかかっている。それが「うんざりした話」というのである。そもそも、「そもそも論」には、いかなる大義名分があるのかである。もし、「そもそも論」が正当性があるとするならば、何故小泉政権が、4年間の長期政権となっており、その間、総裁選3回、国政選挙2回、「郵政民営化」の政権公約を掲げて民意の信を得ているのかである。即ち、「郵政民営化」は国民全体の民主主義に依拠しており、「そもそも論」は党内民主主義の一部に依拠していることになる。そこで、氏が指摘する「政党は所詮国民全体の民主政治の一手段であり、党内民主主義を国民全体の民主政治に優先させる根拠はないからである」となる。「そもそも論」によって自民党が「郵政民営化」を決着できないときは、「うんざりした話のなれの果て」になるというのである。具体的には、自民党政権政党として民意の信を完全に失うことになるということである。