クーラー、郵政民営化、小林信彦のコラム

私がクーラーなしで過ごせるのは、家族がいないからだろう。家族というものは、良くも悪くも暑苦しいものだ。青柳瑞穂の未完の小説に、家族とはいつも「過剰であるか不足しているかのどちらかだ」という名言があった。
とはいえ、クーラーもあれば使ってしまう。あっても使わないのが、トレッドミルのたぐい。これも、引っ越しの時ふるいにかけられた。親がヤフーオークションに出すというが、たぶん買い手が付かないだろう。
郵政民営化の議論が参議院に舞台を移した。先日、新聞の勧誘が来たが断った。この郵政民営化をめぐる報道は、まず郵政民営化の是非、次にそれを公約した政党の責任。他の、ポスト小泉とか、新党結成とか、解散するかしないかとかは、ゴシップに過ぎない。
新聞は、本筋にはまったく触れず、ゴシップだけをあおり立てている。こんなものに金を払うのはばかげている。最近は、小林信彦さんのコラムのため、週刊文春を買うようになった。しかし、小林さんは小泉純一郎が大っきらい。敵の敵は味方ということか、民営化阻止に動いているきらいがある。小林信彦という人は、少しだけデマゴギックになる時がある。それというのも「言論の力」みたいなものを信じているからではないか。
筒井康隆の『みだれ撃ち涜書ノート』という古本を拾い読みしていると、小林信彦さんについて

もう十五年以上ものつきあいになるが、作者はぼくと同世代であり、作家としての処世や自己演出にも似たところがあり、血液型も同じなら興味の対象もひどく似ている。

ちなみにこれは昭和57年。

ただぼくと違い、この作家のよさは、この小説からもわかる如く、たとえば純文学を幻想と断じきれないような屈折した部分を持ち続けている点である。

「この小説」というのは『ビートルズの優しい夜』だ。
小林信彦という人は、どう見ても政治的にはリベラルで、そのあたりが小泉純一郎を受け入れかねる点なのだろう。それでも、政権発足当時は文春のコラムでも肯定的に書いていた。
今週号のコラムは、「<戦後六十年>の変わらなさ」

新聞では、後藤田正晴氏の談話(朝日新聞・七月十三日)が抜群であった。

とある。
しかし、後藤田正晴は政治家ではないのか?私には、政治家が評論家として優れていても仕方ないのではないか、という思いがある。
思い出したけれど、中曽根康弘郵政民営化反対を公言した。NTT、JRを民営化した人がこれをいうのは、比例代表名簿から外された私怨であろう。だが、こういうのが政治家だという気もする。
同じコラムに「ドキュメント’05」というテレビも紹介されている。

ついさいきん、中越の川口町で、たった一人で田んぼ(棚田)に土を入れ、雪解け水をひき、田植えをする老人の強烈なドキュメントを見た。周囲は地震後の惨状で、道が裂け、どう考えても不可能なのだが、「貧乏人は行政のいうことをきいていたら、飢え死にしてしまう」とつぶやく老人は六十九歳で、胃ガンが完治しているかどうかもわからない。

「貧乏人は行政のいうことをきいていたら、飢え死にしてしまう」
綿貫民輔亀井静香が新党結成をほのめかしているらしい。以前、綿貫民輔が平気で汚れ仕事に手を染めるのは、何があっても落選しないからだと、書いたが、ただ、富山に8年暮らした経験から判断すると、富山県民は綿貫民輔「個人」に票を投じているのではない。郵政民営化自民党下野とを秤にかけた時、彼らがどちらを選ぶか、見てみたい気もする。当の綿貫氏にしてからが、スーパー保守の富山県民が自民党を捨ててまで、得体の知れぬ新党に投票してくれると判断するだろうか?
富山では、出る杭はかなり打たれる。