『世間とは何か』のつづき

『世間とは何か』の続編、阿部謹也著の『「教養」とは何か』を読んだ。しかし、さすがに「教養とは何か?」を自分の日記の副題に掲げる気はしない。(^^;)『「世間」とは何か』の流れでなければ、とても手に取らない思い切った題名ではある。
日本人が「社会」と「世間」に引き裂かれた価値観を生きているとすると、「じゃあ、教養って何?」ということになる。ゲーテのような教養を身につけたら大人になれるのか?
前著の読後、なんとなく近代的個人を優位に考えてしまったが、それは著者の意図するところではなかったのだろう。「西洋人であるとのつまらなさがなんとなく分かってきた気がする」という、金子光晴のつぶやきは鋭いと思う。近代というのは要するにキリスト教のことだが、その価値観はすり切れかかっている。
アイスランドサガの章を読んでいて思った。キリスト教以前の西洋の方が生き生きしている。恥の文化の方が罪の文化より原初的で生なのだ。今、私らは近代社会と原初の世間に分裂していて、どちらの価値観も実現していない。そのことがフラストレーションになっている気がする。社会で責任をとらずに世間に逃げ込み、世間でけじめを付けずに社会の建前をふりかざす、そういう生き方にいらいらさせられている。
社会に生きるときは、仮にも世間とは切れた個人であるべきだし、逆に世間の一員であるとき、世間を対象化できていなくてはいけない。
「人間の尊厳は集団の中でのみ守られ」るのだし、人は「集団的教養の中でのみ、教養人となれる。」これ、けっこう重要な指摘だと思う。