南京

証言・南京事件と三光作戦 (河出文庫)

証言・南京事件と三光作戦 (河出文庫)

人の死は喜劇か。もちろん、悲劇も喜劇もフィクションであり、想像力の助けを必要とするが、これほど大量の死には、想像力が及ばない。
南京事件の有無について、いまだに議論したい人たちがいるようだが、その議論にわたしは加わるつもりはない。
わたしの読書は全くの暇つぶしに過ぎないが、当時の本を読んでいて、特に南京に限らずとも、大陸で日本軍がどんなことをやっていたか、大概は分かる。それが南京でだけ粛然としていたわけがない。
虐殺されたのが五万人か十万人かという不毛の議論を重ねるよりも、ともかくその歴史にかたをつけるべきではないかと思う。
というのは、この本の元となった記事が最初に雑誌に掲載されたとき、防衛庁の役人が著者である太平洋戦争研究会を呼び出して記事の訂正を求めたそうなのだ。その役人の論旨は、
「戦史室にはそういう資料がないので、記事になったような事実はありえない」
ということだったらしい。
この論理の幼稚さが分からない人はとりあえず置いていくが、わたしたちの暮らしているこの社会では、この手の幼稚な論理がまかり通っているのも事実ではないだろうか。その幼稚さも極度の幼稚さだが、それが、わたしたちの住んでいる社会が進んでいく方向を決定する機関の主要な論理であるとすると、これは、告発しておく価値がある。
南京事件をめぐる議論よりも、それを否定する国家の論理がこの幼稚さであることが、そして、その幼稚さがまかり通ってしまうことが、軍部の暴走を許してしまうのと同じ態度ではないのかと思うのだ。
ほんとうなら、日本人自身の手でこれらの戦争犯罪者を処刑すべきである。たとえば、靖国神社A級戦犯が祀られることの是非を論ずるときに、それがアメリカ合衆国によって裁かれた犯罪者だからという言い逃れがいつも出てくる。それでは、日本人自身の手で裁いていたら、彼らは戦犯ではなかったのか。実際にそういう裁判が行われていないのだから、なんともいえない。
では、なぜそのような裁判が行われないのか。それは、強制連行に直接責任のある人間の孫などが総理大臣になっているのだから、彼がそれを否定する発言をするのは当然である。ましてや、その責任を裁こうなんて思うはずもない。
戦後、財閥は解体させられ、地主は土地を失ったが、官僚体制はそのまま残ったに等しい。彼らの気風は戦前のままだし、そして何より、頭のない蛇のように暴走した主体は、彼らではないのか。
あったことをなかったといい、なかったことをあったということが、権力の特権であるかのように思っていて、そして、その権力におもねることが幸せだと考えている人が集まって、この国の世間を作っている。
虐殺の加害者たちが、シベリアの抑留者になっている。被害については雄弁だが、加害についてはしゃべらない。
加害、被害の問題と、責任の問題は違う。現地で女性をレイプした後、馬に両足を引かせて二つに裂いた兵士も、戦争の被害者だといえるかもしれない。しかし、もしそうだとしたら、ヒットラーだって戦争の被害者だと主張できる。
責任はあるかないかの問題ではなく、とるかとらないかの問題であり、取るべき責任が「ある」のは、誰かを決めるその態度が、その社会の文明の在処をしめしている。
わたしたちの社会では、戦争責任に限らず、バブル崩壊、銀行の破綻、年金問題、どれをとっても誰も責任をとっていない。
南京大虐殺は、その被害者がたまたま外国人だったから、国際問題になっているだけである。沖縄の集団自決はどうなるだろうか。
滑稽なのは、責任をとりたくない連中の私設応援団みたいな人たちがいて、精力的に活動していること。彼らが愛しているほどに、国家が彼らを愛しているとはわたしは思わない。もてない男の岡惚れを見るようで、私の嗜好にはあわない。