『イカの哲学』 『ティファニーで朝食を』

イカの哲学 (集英社新書 0430)

イカの哲学 (集英社新書 0430)

ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を

乱読している本が突然響きあうときがある。
『イカの哲学』が、『エデンの東』のカインとアベルの解釈についてちょっとしたヒントを与えてくれた。
カインが弟アベルを殺したのは、神エホバが、アベルの貢物を取って、カインの貢物を取らなかったからだが、トラスク家の中国人召使、リーは、それは「エホバが狩猟民の神だからではないですか」と発言する。カインは耕す人、アベルは狩る人だった。
兄弟の貢物の片方だけを取るのは理不尽で、カインの怒りももっともな気がするが、農耕と狩猟の違いに目を向けると、すこし事情が違ってくる。
狩猟のほうが農耕よりはるかに起源が古く、狩猟は人間にとって原初的な生存方法だったはずだ。そして、狩りの獲物を神に捧げることも、同様に原初的で自然なことだった。エホバに限らず、たとえば、アイヌの神にも同じように行なわれてきたことだ。
しかし、農耕は産業革命である。それは現代に直接につながっている。そこには生命の実存がない。農耕民と作物の関係は、狩猟民と獲物との関係とはまるでちがう。狩猟民と獲物は命の重さにおいて対等だった。
人が自然を手なずけて、食べるものと食べられるものの命の連続性を忘れたとき、人は神の顔を見る値わざるものになった。だからこそ、弟を殺せたのだ。
宗教とセックスのストーリーは奇妙に似ていると、常々思ってきたけれど、中沢新一が展開して見せた、バタイユのエロティシズムに基づく平和論は、示唆に富んでいる。ジョルジュ・バタイユによると、宗教、性愛、芸術、戦争は同根なのだそうだ。
エデンの東』につづいて『ティファニーで朝食を』読んだりすると、ジェームス・ディーンに続いて、オードリー・ヘップバーンを読んでいるようだが、映画と小説はまるで違うようだ。しかし、映画も小説も、そして二人のスターもいまだに輝きを失わないのだから、この頃のアメリカには底力があったのだろう。今現在は、面白い原作の映画はつまらないのが普通である。
トルーマンカポーティは、オードリー・ヘップバーンがホリー・ゴライトリーを演ずることに、いささか不満であったようだ。
私は映画を見ていないが、ただ、イメージとしては、ヘップバーンのあのおしゃれなファッションが目に浮かぶのは事実である。しかし、小説はヘップバーンよりもっと生々しい女性像を伝えてくる。
翻訳者の村上春樹が、「誰かがこの『ティファニーで朝食を』を原典にできるだけ忠実に、もう一度映画化してくれないだろうか?」と書いているが、もしかしたら、これは今の日本を舞台に映像化しても成り立つのではないか。全く古びていない。
冒頭の写真のエピソードのぶっ飛び方にはやられた。