「スケッチ・オブ・ミャーク」

knockeye2012-12-01

 ちょっとひさしぶりにジャック&ベティで「スケッチ・オブ・ミャーク」。
 この映画は、東京都写真美術館のを見逃してしまって、ジャック&ベティでの上映を楽しみにしていた。
 今日が初日の初回で上映後にトークショーがあった。久保田麻琴氏によると、写真美術館で上映した時は、音響がまだ2chだったのを、横浜の上映から5.1chサラウンドに対応させたそうで、んじゃぁ、かえってよかったかな、みたいなことだった。わたしとしては、もっと音が大きくてもよかった。
 それと、こんかいはわたしの後ろにすわった人たちが宮古島出身だったみたいで、上映中ずっとしゃべりっぱなし。その意味でも、‘宮古島サラウンド’になっていたの。
 久保田氏も
「きょうは宮古のかたがおいでなんじゃないですか?なんとなく雰囲気で分かったんですけど・・・」
といっていたけれど、だってしゃべってんだもん。おばあちゃんちでホームビデオを見ているような感覚で、あれはあれでよかったのではないか。これは皮肉でいってるんじゃなくて、この映画で歌われている歌や祭に、私自身もただの観客ではないと感じていたという意味。
 このあいだ、BENIが日本のヒット曲を英訳して歌った「BENI COVERS」というCDを紹介したけれど、日本の歌詞を英語に訳すと、花が散ったの、雨が降ったの、みたいなことがやたらと多いことに気が付く。おそらく、わたしたちにとって、花はただ花ではなく、雨はただ雨ではないんだろう。いいかえれば、わたしたちは花や雨との連続性を保っている。
 スタインベックの『エデンの東』にカインとアベルの話が出て来る。
 カインとアベルの兄弟は、ともにエホバ神に捧げものをするが、エホバはアベルからだけ受け取って、カインのものは受け取らない。カインはこれを恨んでアベルを殺す。カインはエデンを追放され、神の顔を見ることが出来なくなる。
 なんだか、もとはエホバのえこひいきのように聞こえるが、カインは耕す人、アベルは狩る人なので、その違いを考えれば、獲物と命のやりとりにおいて対等な狩猟民にたいして、農耕民にとっての自然はすでに食物にすぎない。言い換えれば、農耕民と自然の間には‘疎外’が生じている。神の顔を見ることが出来ない。
 この話はおそらく神を祀ることの本質を語っているだろう。
 この映画「スケッチ・オブ・ミャーク」は、‘ミャークヅツ’と呼ばれる宮古の祭の話でもある。久保田麻琴氏によると、‘ミャーク’は、もちろん‘宮古’であるが、その元の意味は‘うつし世’、そして‘ヅツ’は、季節の節目を意味している。‘ミャークヅツ’とは、‘此の世の此の時’、ミャークヅツは、今この時が、うつし世の森羅万象につらなるをことほぐという意味だろうか。
 宮古の人に限らず、わたしたち日本人は、こうした自然とのつながりのなかで永く生きてきた。白洲正子が指摘したように、仏教が伝来しても、それはやがて本地垂迹というかたちで、古い神々のなかに融けこんでいく。
 キリスト教徒が選民としての疎外と抑圧に苦しむ一方で、わたしたちの文化が、こうした連続性、総合性を保ってきたことを喜ぶべきだろう。だからこそ蛇足ながらもひとこと言っておきたいのは、右翼が言っているようなのは、そのイデオロギーにおいても、全然日本文化ではない。あえていうなら、悪い冗談だと思う。神の顔どころか。
 映画の話に戻った方がよいだろう。
 久保田麻琴氏は、このような音楽遺産がながく放置されてきたことに怒りをおぼえさえすると言っていた。わたしは音楽についての語彙が貧弱なので、なんといっていいか迷うのだけれど、グルーヴというのか、突き上げてくる感じ。とくに、最後の方に出てくる高橋さんというひとの若い頃の録音はすごい。
 ただ惜しむらくは、この映画を観ているわたしたちが、この美しい祭の最後の目撃者であることは間違いなさそうである。どのような美しい祭もやがて寂れて消えていくこともまたわたしたちは知っている。
 途中で、美しい泉が出てくる。それこそこんこんと湧いている、きれいな泉だなと思ってみていると、案内したおばあさんが
「この辺は昔は何百人というこどもが集まって遊んでいたものだけれど、今は自然がダメになってしまった」
と言っていた。
 

スケッチ・オブ・ミャーク

スケッチ・オブ・ミャーク