川村清雄

knockeye2012-12-02

 江戸東京博物館で川村清雄展、そして、目黒美術館で‘もうひとつの川村清雄展’。
 これは、週刊SPA!で坪内祐三が誉めていたのを読んで、あわててかけこんだというところ。うっかり見逃さなくてよかった。江戸東京博物館のほうは終わってしまったが、目黒美術館はこの16日までやっているので見ていない方はぜひ足を運んでほしい。
 横浜美術館で開催中の「はじまりは国芳」では、浮世絵という江戸庶民の文化が、明治以降たどった変遷を概観できるが、この川村清雄展からは、江戸の武家文化が明治にどのような残り香を漂わせていたかをうかがい知ることが出来るだろう。
 わたしは高橋由一は知っていたけれど、川村清雄については何も知らなかった。高橋由一武家の出だったが、川村清雄は将軍に仕えるお庭番の家系とかで、17歳で明治維新をむかえたときは、後の徳川家十六代当主、家達の奥詰になり、ともに静岡にくだっている。
 絵についての来歴は、さらにおもしろく、8歳で土佐派の絵師、住吉内記に入門、大阪東町奉行になった祖父と大阪に移った10歳には、田能村直入に学び、12歳で江戸に戻ると、開成所の画学局で、川上冬崖、高橋由一から洋画を学んだ。
 20歳で、徳川家の留学生としてアメリカに渡り、才能を見いだされて、本格的に絵の勉強はじめ、アメリカからパリへ、パリで3年、ベネチアで6年をすごしている。25歳から30歳まですごした一九世紀末のベネチアは、想像するだけでわくわくする。実際、晩年になっても、ベネチアの思い出を語りはじめると客を帰さなかったようで、午前3時まで付き合わされた人もいるそうだ。
 27歳の時に、パリ万博を見学している。おりしもジャポニズムが席巻していたヨーロッパ、いよいよ日本に帰国というときには、友人から「あなたのなかの日本を大切に育ててください」だったか、そんなメッセージをもらったそうだ。
 田能村直入に学び、ベネチア留学した画家、というのは、たとえていえば、大山倍達に学んでメキシコで修行したレスラー、ぐらいのオーラが漂うはずだが、どうも帰朝後は不遇をかこったようで、一般的な名声をえたとは言えないと思うが、ただ、勝海舟をはじめ、徳川家ゆかりのひとたちの後援をえることができたし、一部の愛好家の支持もあった。
 これは今となって思えば、かえって幸いだったと思える。というのは、明治以降日本の画壇に主流となった洋画の絵は、フォーマットというか、大前研一ふうにいうと、プラットフォームが、要するにまったくヨーロッパの模倣にすぎなくて、その中で、誰さんはちょっとデッサンが上手いよとか、誰さんは画面構成がいいよとかいっても、それがどうしたという話。
 川村清雄には、はなからそういう西洋コンプレックスがない。滝の絵を多く描いているが、そのとき彼が意識しているのははっきりと応挙であり光琳である。油絵という武器で応挙に挑んでいる。
 技術はパリやベネチアで習得した本格的な油絵だが、それが描かれている素材は、屏風、色紙、短冊、扇面、ときには、鍋ぶたであったりもする。目黒美術館には、黒繻子の帯に油彩で描かれた物語絵巻のような絵もあった。
 例によって図録の写真のしかも部分で恐縮だけれど、下の<なた豆に雀>は黒漆のうえに描かれている。柴田是真の漆絵を思い出させないだろうか。

 下の絵のように木目をそのまま生かしている絵も多い。背景に添えられている字は、これを油絵で描ける画家が明治のその時代にさえひとりでもいたのだろうか。

 江戸東京博物館のサイトによると

清雄は有識故事に通じるだけでなく、敬神尊仏の人であり、歳時の催しも欠かさず行った。そのことは作品制作にも反映し、絵は季節の贈答品として近しい者へ贈られ、和歌が添えられることもあった。清雄は、絵を描くにはまず和歌の道より入るべしとし、風流心が必要と述べていた。

そうだ。
 川村清雄の絵には、失われていく武家の暮らしが、たしかに息づいている。
 日清戦争の双方の戦没者を弔うためにと依頼された、海底に沈むふたつの髑髏の絵に、勝海舟が詞をそえている。詞の内容は、意図にそぐわないんじゃないの?という気もするけど、それはともかく、絵が、展覧会のためでなく、そうした武家の生活感情に根付いていたという意味で、川村清雄は、最後の絵師と言えると思う。
 江戸東京博物館のポスターに使われている、<建国>は、川村清雄の、ほとんど最晩年といえる時期に、フランスの仏教学者シルヴァン・レヴィが、たまたま彼の展覧会を観て、感動して描かせたもので、今は、パリのリュクサンブール美術館にある。しかし、わたしはこの絵よりも、シルヴァン・レヴィを感動させたろう他の絵の方がずっといいと思う。