私の昭和史

私の昭和史

私の昭和史

丸谷才一の書評集で紹介されていた本のひとつ。
著者は詩人で、本書は「ユリイカ」に連載されていたものだそうだ。題名のとおり、当初の予定では、昭和の最後まで書き続けるはずだつたが、昭和20年終戦擱筆している。著者は昭和二年の生まれなので、十代の終わりまでを回想したことになる。「瑣末にこだわったため」と著者は書いているが、その瑣末が、読者の楽しみというものだ。
旧制中学、旧制高校、とくに一高の寮生活は興味深かった。著者自身も、当時の一高生には「選良意識があった」と認めているが、十代の若者がそういう自負を抱いているのはむしろ小気味よい。天皇御真影の安置している部屋で、隠れて花札を引いているなんて、実に頼もしい。一高ではそもそも御真影を講堂に掲げるみたいなことはしなかった。それがもう戦況も緊張のきわみに達している頃ですらだから、教師の方も見識があった。
著者の少し先輩に、加藤周一中村真一郎福永武彦らがいる。つまり、このあたりから「戦後」が育まれていたのだ。戦争が終って戦後になったのではなく、あの戦争のバカさ加減が、いやおうなく戦後を準備した。
昭和17年の『文学界』九、十月号に「近代の超克」座談会が掲載された。加藤周一は、これを批判したわけだが、これは批判されるべくして批判されたのだということが、当時の一高生の視点に立つとよくわかる。
『日本近代文学事大典』の「近代の超克」の項が引用されている。孫引きすると「なまじの知性と良識に装われているだけに、結果的にはかえって悪質な、軍国主義支配下の「総力戦」に協力する思想的カンパニアとなった」と記されている。

それにひきかえ、中村光夫さんの「「近代」への疑惑」は明晰すぎるほど明晰であった。中村さんは、「これまで我国において近代的といふ言葉は大体西洋的といふのと同じ意味に用ひられてきた。そしてこの曖昧な社会通念が、なほ僕等の意識を根強く支配してゐるのは、それが大体次のような二つの事実を現実の根拠とするであらう」といい、「そのひとつは我国においては「近代的」と見られる文化現象はすべて西洋からの移入品であつたといふことであり、いまひとつは僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつたといふことである」

著者は友人のいいだももと、講演の依頼に稲村ガ崎の中村光夫邸を訪ね、その後、足繁く通った。
つくづく日本の近代は、西洋の近代のパロディーだったと思う。これが表面だけならまだ笑いぐさですむのだけれど、たとえば、天皇制という制度、これを日本の伝統だといいたい人が今でもいるだろうか。実態は、明治の役人が何とかひねり出した、立憲君主制のもじりにすぎないことは議論の余地がないと思える。だから、天皇制の存続を主張することは、表向きは極右的なのに、内実は外国かぶれ。この滑稽感は、今となっては笑いにもつながらない。どちらかというと、盛りがすぎたコメディアンのように痛々しい。
西洋に対するコンプレックス。その裏返しとして、アジアに対する根拠のない優越感。その生み落とした結果はあまりにも悲惨だった。
今、北京オリンピックの聖火が、チベット問題をアナウンスしながら世界を巡っているが、当時の日本を今の中国に置き換えると、当時の日本にとっての西洋が、今の中国にとっての日本であり、当時の日本とっての中国が、今の日本にとってのチベットなんだろう。
少数の良識派でさえ、望外の勝利を収めた太平洋戦争の緒戦では小躍りして喜んだそうなのだ。
こんなエピソードもある。寮生活の潤いにと思い、当時の教授が寮生に投稿を募って、雑誌を刊行しようとしたが、校了までおわっていたにもかかわらず、出版されなかった。幹事として携わった著者は、その事情を知っている。出版するはずの新潮社が「軍国的な文句が一行もないではないか!」と一喝してボツにしたそうだ。
小林信彦もたしか書いていたと思うが、マスコミはむしろ煽ったのである。