シャルロット・ペリアンと日本

knockeye2011-12-26

 鎌倉の神奈川県立美術館で、「シャルロットペリアンと日本」展が開かれている。

 ル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三を介した、日本の商工省からの招聘に応じて、シャルロット・ペリアンがマルセイユを出航したのが1940年6月15日、フランス政府がパリを退去し、パリが無防備都市と宣言されたのがその前々日の6月13日、ドイツ軍の先鋒がパリに入城したのは6月14日だった。戦火を逃れて帰国する岡本太郎荻須高徳も同船していた。
 フランスがドイツに降伏した6月25日には、シャルロット・ペリアンはまだ洋上にいた。しかも、船は枢軸国日本へと向かっている。こんなとき、人はどう感じるものだろうか。
 シャルロット・ペリアンの『自伝』にはこう書いている。
「フランス出発以来、私は一ヶ月間嘆き続けていた。大歓びしているべきだった。自分で望んだのであり、無理矢理させられたのではない。あのときもいまでも、私には生きるとは『前進する』ことだとわかっている。
 アフリカの先端ダーバンは、私の記憶のなかに、いま離れようとしている白人支配の世界として残った。」
 シャルロット・ペリアンの招聘について、彼女の滞在中、アシスタントとして共に行動した柳宗理はこう書いている。

・・・外貨獲得にやっきになっていた日本の経済界は貿易の為に外国の有名なデザイナーを招聘し、貿易品を開発するという計画を持っていた。たまたま美術学校を出たばかりで輸出工芸連合会(政府の外郭団体)に務めていた小生は、当時の貿易振興課長の水谷良一氏から誰を招聘したものかという相談を受けた。未だ学生あがりで当時コルビュジエに熱中し彼しか念頭になかった小生は、早速コルビュジエの研究所から帰国されたばかりの坂倉準三氏に意見をうかがった。・・・

 シャルロット・ペリアンがル・コルビュジエのアトリエに入ったのが1927年、坂倉準三は1931年から1939年まで在籍した。
 1937年のパリ万博で、日本館を設計したのは坂倉準三である。ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレの建築資材を使用した。
 このときの日本館の‘コラージュ写真’というのがある。シャルロット・ペリアン、ピエール・ジャンヌレ、とともに、ホセ=ルイ・セルト、ホセ・ガオスの姿がある。
 スペイン共和国館を設計したホセ=ルイ・セルトは、ル・コルビュジエの弟子で、パリにおける反フランコ闘争の指導者のひとり、ホセ・ガオスは反フランコ同盟の重要人物で、スペイン共和国館の総括委員長を務めた。
 このふたりの招きに応じ、スペイン共和国館にパブロ・ピカソが描いた絵は<ゲルニカ>だった。
 すくなくとも、このときの日本館は、反ファシズムを称賛していた。
 1941年、日本での展覧会「選択・伝統・創造」展で、シャルロット・ペリアンは、自身の作品と共に、ピカソを展示した。
 興味深いのは、来日したシャルロット・ペリアンが、もっとも共鳴したのが、柳宗悦民芸運動だったこと。ル・コルビュジエの当時最先端のデザインの思想と、柳宗悦民芸運動が共鳴し合っていたということは、やはり記憶にとどめておくべきだろう。
 柳宗悦が、念願だった日本民芸館を設立したのが1936年、シャルロット・ペリアン訪問のころ、柳宗悦は、東北と沖縄を発見しつつあった。
 シャルロット・ペリアンが日本民芸館を初めて訪ねたときの手帳の記事。

柳宗悦の民藝館を初訪問。
柳邸で昼食。とてもいい環境。日本に来て初めての芸術界との出会い。また会いたい。

− 柳の自宅。美しい石製の屋根組。美しい木製の骨組み。
− 美術館では、美しい石の床張りに、藁の莚が敷かれている。
− 日本では一般的に、非常に美しい自然の素材を利用する。
下の美しい陶器の展示を見る。

手帳なので、単語の反復に気を遣っていないのは当然だが、この‘美しい’の連続に彼女が受けた感銘の強さが感じられる。

− 朝鮮陶磁が展示されている一階を見る。非常に美しいフォルム。かなり自由な空想力。
− 隣には、柳の書斎がある。イギリス人芸術家のデザイン・・・。要注意。伝統と同じように美しいものを作る必要があるが、新しくても劣ったものを産み出してはならない。伝統は前進を望んでいる。より良いもの、もしくは違うものを作る必要がある。よって、物真似より、民俗芸術の方から多く学ぶことができる。

 展覧会の図録に柳宗理が寄せている「ペリアンのこと」というコラムによると

 先づ、日本でデザインをするからには、日本を知らなくてはならないというので日本全国の行脚が始まった。京都、奈良は申すまでもなく、東北、中部、中国、山陰山陽、北陸等に迄足を延ばした。日本人の生活、殊に住居や日常使用している什器に対する研究心の強さは、まとまって厖大な資料となったのである。

・・・例えば、彼女は旅行の度に常に携へているスケールで、襖、天井、障子の高さ、土間、畳、或は蚊帳の寸法に到る迄、一々計っていたことを思い出す。そして彼女は絶えずヨーロッパのモジュールと、日本のモジュールの違いに頭をひねっていた。

 図録に土田眞紀が寄稿している「柳宗悦 − ペリアン −柳宗理」という文章が面白い。
 柳宗悦柳宗理の父子関係に、シャルロット・ペリアンの存在が、いわば、触媒として大きな役割を果たしたのではないかと推論している。この父子はおそらく、ともにシャルロット・ペリアンという第三者の目を通して、お互いを見つめ直すことができたのだろう。
 このフランス女性は、仕事において妥協も容赦もしなかったようだ。
 「選択、伝統、創造」と後に呼ばれることになる展覧会では、当初、日本の工芸作品でダメなものの例も展示する予定だった。そのうちには、日本では名のある作家の作品も含まれていたようで、この企画は変更されたが、それでも写真で展示し、赤テープで上から×をつけた。
 これは考えてみれば、商工省の招聘で、西洋への輸出に堪える品を選ぶことが、彼女のミッションであるわけだから、行動としてまったく正しい。このあたりの感覚に関しては、オリンパスの事件など思い合わせても、日本人は考え直してみるべきだろう。しかしこれはむしろ余談。
 先の柳宗理の回想に、ペリアンがよく語っていた言葉として

 あなた方は過去にあなた方の祖先たちがつくったもの、またあなたがたが作られているものをよく手にとってご覧になることがありましょう。そこにあなた方は形だけではなくて、それを使っている人々の精神や生活、あるいはその方法等の内容を学びとることができるでしょう。
 逆にもしヨーロッパでできたものをあなたがたがご覧になったとき、その内容をかえりみずに形だけをとったとしたらそれは根本的な誤りだと思います。
 日本はどうしてヨーロッパの国々からその国の純粋さと簡明さを誇る美しい伝統をまったく失ったものばかり取り入れるのでしょうか。

 柳宗理のデザインは、若いころ随行した、このシャルロット・ペリアンの影響を強く受けている。柳宗理の日本のデザインにおける存在の大きさを考えると、このシャルロット・ペリアンの基本的な姿勢は、常に顧みていいはずである。
 また、ことはデザインに限らないと私には思える。上の言葉は、前に、このブログで紹介した中村光夫の「『近代』への疑惑」の一節、
‘僕等は「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつた’
という痛切な悔恨を思い出させる。
 私たちは、あるとき、彼らの現在にすぎないものを、私たちの未来だと勘違いしてしまった。私たちの伝統から、私たちの未来を選択していく努力をせず、自分たちの伝統も彼らの伝統も無視して、私たちの現在を彼らの現在に、形だけすり寄せていくことを「近代」だと思った。
 その最もグロテスクな姿が、右翼と呼ばれる人たちだろう。あんな、迷彩色の丸刈りや軍歌が、日本の伝統であるはずもない。あれは、「‘あのとき’の西洋に、精一杯すり寄った日本」の姿にすぎない。
 東日本大震災のすぐあとだったか、日本人の美徳ということについて書いたけれど、醜悪な形で誤解されないように願いたい。日本人が美しいと書いたのではない。日本人は日本人の美徳から出発するしかないと書いたまでである。
 この記事を書いている12月27日の朝刊で、柳宗理の訃報に接した。私が毎日仕事で使っているバルブハンドルは、おそらく柳宗理のデザインだろうと思う。