ハンコック

knockeye2008-09-14

このはてなダイアリー自動リンクはほんとに面白くて、私、設定は公開にしているのだけれど、どういうわけか公開にならないのが残念。
ともかく、そんなリンクの一つを辿っていて、「グーグーだって猫である」の犬童一心監督が「眉山」の監督でもあることに気づいた。
眉山は徳島に実在する山の名前で、小学生のころ徳島に住んでいた私は、何度かロープウエーでのぼった記憶がある。確か「焼き餅」という餡子入りの餅が売っていて、すごくおいしかったのを憶えている。
小さな山だったと思うが、美しい名前だったなぁと再認識したのは、同名の太宰治の小説を読んだときだ。ただしこちらは徳島の眉山とは関係がないが、たぶん太宰治も、映画の原作者さだまさしも、そして犬童一心監督も「眉山」という響きの美しさにインスパイアされたに違いないだろうと思うのだ。
そういう監督であるなら、麻子さんの出身地を敢えて富山にしたことに、少しくらい深読みしても間違いではないと思える。
なにしろ映画の冒頭、マーティン・フリードマンのナレーションで吉祥寺の紹介が挿入されるのだから、土地と人の関わりあいを強く意識する人なのだろう。
わざわざ断る必要もないけれど、私も人並みに三連休である。それにしてもこの週末はなんだか奇妙に疲れるなぁと考えてみると、先週、夜勤明けで土日とも出勤したので二週間休みがなかったのだった。そういうことをするときっちり疲れがたまる蒲柳の質である。
ただ、この一週間で三本映画を観たのも疲れの原因であるかもしれない。
デトロイトメタルシティ」、私は大いに楽しんだのだけれど、やはり原作に親しんでいる人たちには不満な点もあったらしい。ムーヴィーウォーカーのレビューのなかで、「もうすこし90年代のインディーズシーンの雰囲気が出せないか」という指摘があって、なるほどと納得してしまった。映画はディテールにこだわってこだわりすぎるということはない。逆に「そこまでやるか」までやらないとうそ臭くなってしまう。
それで、ウィキペディアの「デトロイトメタルシティ」の項を閲覧していたら、一時間ほどもかかってしまった。原作の世界はかなりなものであるらしいことが窺い知れる。
ハリウッドでリメークされるのもうなづける。ストーリーの骨格がしっかりしているので、その部分さえ壊さなければ、いくらでもバリエーションが考えられる。そこは作り手の腕の見せ所だろう。政治的にコレクトでありうるかどうかというあたりが、ハリウッドの場合ネックになるかも。
ハリウッドリメイクが原作をこえる確率は、実績からしてかなり低いが、ただ、音楽の面では期待できるかもしれない。
ウィキペディアデトロイトメタルシティの項を書いた人はかなりのエンスーに違いないが、根岸崇一について「決して二重人格ではない」とただし書きがある。
あれが二重人格だとすると、とたんに物語がありきたりになってしまう。二重人格でなくても、自我の一貫性が簡単に崩壊してしまうところがこの作品の要だろう。
首尾一貫した自我なんて、それ自体が、たぶん、ちゃんちゃらおかしいのだ。対立する価値観が二人の人物ではなく、ひとりの人格の中に存在することがこの作品の魅力なんだろう。
グーグーだって猫である」について「自己と他者の境界は案外あいまいだ」と書いたけれど、それは自我そのものが曖昧であることだし、麻子さんが恋愛に踏み込んでいけない、あるいは、恋愛に踏み込まれたくないという思いは曖昧な自我を何とか束ねてしっかり握っていないと、それがばらばらになってしまうという強迫観念ではないだろうか。
その点、クラウザーさんは最初からばらばらなのがなんとも頼もしい。
この一週間で三本の映画を観たと書いたが、その三本目は「ハンコック」。何ヶ月か前、この映画のポスターを最初に観たときは、ハービー・ハンコックの伝記ものかと思った。
ウィル・スミスは好きだ。
幸せのちから」も観たけれど、映画としてどうこういうより、アメリカの閉塞感が伝わってきた。興行的に成功したかどうか知らないが、どういう気分のときこの映画を見に行くのだろうかと不思議に思ったのだ。
で、「ハンコック」なのだから、ちょっと社会派転向かと思ったのも無理はないと考えてほしい。
落ちこぼれのスーパーヒーローというすっとぼけた役を、CGを過不足なく駆使して好演していた。
偶然命を助けたお人よしの広告マン、レイの勧めで自己改革に乗り出す。
私の印象に残ったシーンは、レイがハンコックにアメコミのヒーローの絵を何枚か見せて反応をみるところ。
一枚目、
「・・・ホモ」
二枚目、
「赤い服を着たホモ」
三枚目、
スウェーデンのホモ」
そして、レイが一言、
「実に正しい。」
こういうしゃれた会話は、ハリウッド映画に一日の長がある。
スーパーマンが颯爽と登場したのは1938年だそうである。まだナチスポーランドに侵攻していない。そのときは颯爽としていたかもしれないが、今ではさすがに時代錯誤であってもしかたないのではないか。あのタイツは。
スパイダーマンやバッドマンも現役で頑張っているが、あちらは顔を隠しているから、大丈夫だと思うのだけれど、スーパーマンは眼鏡はずしただけ。きっついよね。
予告編で「アイアンマン」を観たけれど、CGを最大限生かしてヒーローものを撮ろうとすると、ストーリーの骨格が戦前のままのヒーローでは物足りないのだと思った。
国民が草の根を掘り返して食べている国が核兵器を持つ時代にあのタイツ姿はいかがなものかと、ハリウッドも気が付いたのではないだろうか。