『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をレイトショーで観た

f:id:knockeye:20190901225919j:plain
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 
 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を地元のレイトショーで観た。
 朝から映画を一本観て、美術館を二軒まわった時点で東京にいたので、近くの映画館で観られるかしらむと検索した結果、東京ではレイトショーまで残席わずかだったので。 
 ニューズウィークの日本語版の批評は、タランティーノがあの事件を「なぜ架空の物語の背景に使ったのかわからない」とか「ただの小道具に使った」とか書いてたんだけど、何言ってんだって感じ。

 映画の中にも出てきたマンソン・ファミリーの生き残りが、この映画を観た感想がアップされてたが、そのなかで、

・・・(タランティーノは)映画ではシャロンの奪われた日常を描くことに専念した。「ただ彼女の生活を見られるだけでも、特別なことじゃないか」と考えたのだ。
レイクにとって、これが堪えた。シャロンの何気ない日常のシーンが、元マンソン・ファミリーとして最も見るのが辛かったところだという。「シャロンに涙が流れました。映画の中では、みんなが活き活きとしてリアルで。ただの名前だけの存在じゃなかったからです。・・・

 リンクを貼っておくけど、ネタバレがあるので注意。

theriver.jp

 この映画こそ、ネタバラシするわけにいかないので、アレコレは書けないが、『イングローリアス・バスターズ』のときも、『ヘイトフル8』のときも、タランティーノが一生懸命にふりかけてた魔法の粉が、何度目かの正直でやっと効いた感じ。
 ブラッド・ピットが演じるスタントマンが、ブルース・リーをコテンパンにする場面が、アジア系から批判を浴びているらしいが、あのシーンがなぜ必要かというと、「マーシャルアーツ」などという、もっともらしいことが席巻する以前の、ハリウッドのマッチョイズムの、その幻想こそが結局ハリウッドの幻想そのものだったんではないかという、裏テーマがあるんじゃないかと思う。
 そして、今回、初共演となる、ブラッド・ピットとレオナルド・デカプリオのコメディアンぶりが素晴らしい。つまり、ブラッド・ピットビング・クロスビーでレオナルド・デカプリオがボブ・ホープなんだろう。このケミストリーが意外だっただけに素晴らしかった。

f:id:knockeye:20190901225750j:plain
ボブ・ホープビング・クロスビー

 シナリオのすばらしさにふれるとネタバレになってしまうのでできないが、とにかく、誰もがあのむごたらしいシャロン・テート事件を知っているわけだから、それを、『レザボアドッグズ』や『キルビル』のタランティーノが映画化するっていう、その不穏な空気は通奏低音として、ずっと、何なら最初から流れ続けているわけ。
 それを十分に踏まえた上での、デカプリオとブラピのケミストリーが絶妙なんだった。
 今度のこれは、タランティーノ史上の最高傑作に数えられるんじゃないかと思う。
 それからもう一点、映画のメインプロットではないが、マーゴット・ロビーが演じるシャロン・テートとマーガレット・クアリーのヒッピーの少女が、はだしの足を投げ出すシーンが二か所もあるが、たぶん、考えすぎではなく、これはウーマンリブの表現だと思う。
 ここからは考えすぎかもしれないが、マッチョイズムとウーマンリブは案外矛盾しないというか、補完的でありうるんじゃないか、という映画的ケミストリーが、副産物的に起こったんじゃないかと思った。
 さらに脱線した話をすると、映画の冒頭、ちらりとスティーヴ・マックィーンがでてくるが、今回、デカプリオとブラピが演じた架空の人物は、スティーヴ・マックィーンをモデルにした可能性は大きいんだろうと、これは誰もがそう思うだろう。スタントマンというキーワード、それに、彼自身がマンソンファミリーの殺害予定リストに載っていて、シャロン・テートが殺されたその日に、実は、シャロン・テートのパーティーに呼ばれていたという事実。ほんの偶然のいたずらで、彼はパーティに行かなかった。もし、スティーブ・マックィーンがいたらって、そこからこの映画が生まれたのかもしれない。