「ダライ・ラマ14世」

knockeye2015-07-13

 横浜シネマリンで、「ダライ・ラマ14世」が始まったので観に行った。これも(というのは、「シェフ〜三つ星フードトラック始めました」を見逃してたのが、なんか悔しいって思いの「も」)5月の末ごろから、渋谷のユーロスペースでやってたらしい。やっぱり、過労死ラインぎりぎりみたいな残業をやっていると、アンテナが鈍るみたい。
 もし、チベット仏教の歴史を知りたいなら、多田等観の『チベット』がわかりやすいと思う。

 それから、チベットの現在について知りたいなら、やっぱり、渡辺一枝の『消されゆくチベット』。 DVDになっているドキュメンタリー映画だと「雪の下の炎」。
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 もちろん、ハリウッド映画にもあります。

 ブラッド・ピットは今でも中国に入国できないんじゃなかったですかね。
 でも、よく考えてみると、ダライ・ラマ14世その人については、自分としては今まであまり興味を持っていなかった。ブラッド・ピットの映画にも出てくる、若くして亡命を余儀なくされる、少年法王だったが、ただ、ダライ・ラマの歴史を考えると、今の14世が存命のうちに、問題を解決しないと、中国は一つの文化を未来永劫葬り去る汚点を、現代史に刻むことになるだろうと考えていた。
 しかし、今回のこの、足かけ6年にわたって取材した、丁寧なドキュメンタリーを観て、それはちょっとダライ・ラマ14世と、チベットの人たちを見くびった考え方だったなと思い直した。中国の暴挙は、あいかわらず続くにしても、そんなことで亡びるチベット仏教ではないようだ。
 この映画には、ダライ・ラマ14世が、日本の人たちのさまざまな問いに答えるシーンがあるのだが、印象的だったのは、癌が再発した若い女性の「どうして苦しまなければならない人とそうではない人がいるのか?」の問いに、「世界のいろいろな哲学や思想で考え方は違うが、仏教では、それは過去に何か原因があったからだと考えます。それをカルマと言います。」と答えていた。
 仏教徒ならどんな初心者でも知っている因果説だが、それをほんとうに信じている人はそう多くない。因果を信じないことを迷いというのだし、その迷いを脱することを悟るという。
 また、重度の障害を負って生まれてきた子を連れて会いに来たお母さんには、「悲しんでもどうしようもない事を、それ以上悲しむのはよくない事だと説かれています」と言葉をかけていた。
 仏教を神秘思想のように語る人に昔会った事があるが、多分、他の宗教に比べて、仏教が神秘的だと思うのは、仏教について知らなすぎる。宗教人口の割合から言って、仏教国と言っていい日本人が仏教を知らないのは、自分自身について知らないと同じことのように思う。
 ダライ・ラマ14世が、これは公式の記者会見で
「私を悪魔と言う人もいるが、私は悪魔ではない。また、私を神や仏の生まれかわりのように言う人もいるが、馬鹿げている。私はただひとりの人間だ。50億人のうちの1人にすぎない。」
と語っていた。
 これは、ダライ・ラマの歴史を考えると、驚くべきことに思えるが、仏教の正統からすればむしろ正しい。ダライ・ラマパンチェン・ラマの後継者を転生によって決めるこの制度は、始まった経緯がはっきりしている。人が始めたことは人が止めさせられる。
 しかし、実際にこれを止めるのは、宗教と国の指導者としてまさに英断というべきだろう。その大もとをたどれば、実は、場当たり的に始まったにすぎないことを、「文化」とか「伝統」とか名付けて、自分たちの権威に利用しようとするものがいるが、滑稽なだけで済めば良いが、そういうものたちが、平和を踏みにじり、人々を困窮させ、ついには国を滅ぼしてきた。
 ダライ・ラマ14世がすごいと思ったのは、「今のチベットが置かれている状況は、チベットという国にとってのカルマだ。チベットの外に出て、チベットが見えるようになった。」という言葉だ。「中国を千年恨み続ける」とでもいえば、悦ぶ者もいるかもしれないが、そんな連中を煽動して何になる?。暴力と破壊を生むだけじゃないのか?。
 チベットの人たちは、今、自分の国を持っていない。インド北部に亡命政府の拠点を置き、新たな民主主義的な政治運営を始めようとしている。暴力によらず自分たちの国を復興させようと努力している。もともとインドに起こった仏教が、インドに戻り、滅んでいたかつての仏教寺院が、チベット僧の手で復興しているそうだ。
 ダラムサラの学校で学んでいる、亡命者の子供たちが健気で立派だった。小松左京の「日本沈没」は、地殻変動で日本列島が海の底に沈んでしまう小説だったが、チベット人は実際に地図上の自分たちの国を失ってしまったし、自分たちの文化を抹殺されようとしている。その現実を前にして、チベットの人たちは「平和」の実現に取り組もうとしている。驚くべきことに思える。チベット仏教は、今こそ最盛期を迎えているのかもしれない。