『BLUE NOTE RECORDS BEYOND THE NOTES』と「裁かない勇気」

 『BLUE NOTE RECORDS BEYOND THE NOTES』が素晴らしかったんですけど、話題になっているのかしらむ。
「BLUE NOTE」てふジャズの老舗インディーズレーベル(と、今風に言えばそういうことになると思うが)の80年を振り返ってる、といえば、それまでなんだが、そういうことではなくて、外面はそういうことにして、監督のソフィー・フーバーがいま撮りたいことを撮ったとしか思えない。
 ジャズが何であるにせよ、ともかく、アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフという二人のユダヤ人が、ドイツからアメリカに渡ってきて、1939年にBLUE NOTEレコードを創業した。「感激のあまり国を出て、彼らのレコードを作りたいと思った」とアルフレッド・ライオンはラジオのインタビューで語っている。

ラジオDJ「趣味で?」
ルフレッド・ライオン「そう、私の趣味で」。

 ジャズにせよ、ほかの音楽にせよ、あるいは、ほかのすべてのアートにせよ、「趣味で」、作りたくて、国を捨ててきたんです、というとき、求めているものがお金でないのはいうまでもないことだけど、今、それが愚かしく聞こえたり、青臭く聞こえたりするとすれば、ちょっと悲しすぎる気がする。
 いずれにせよ、そうして、数々のジャズの名盤が生み出されていった。アルフレッド・ライオン制作、フランシス・ウルフの写真、ルディ・ヴァン・ゲルダーの録音、リード・マイルズのデザイン、それが、50~60年代のBLUE NOTEレコードだった。
 フランシス・ウルフは、BLUE NOTEの共同経営者であるけれども、カメラマンとしてもすぐれていた。

Blue Note The Jazz Photography of Francis Wolff

Blue Note The Jazz Photography of Francis Wolff

Blue Note

Blue Note

The Blue Note Years: The Jazz Photography of Francis Wolff

The Blue Note Years: The Jazz Photography of Francis Wolff

 ほとんどすべてのセッションでスタジオにはいり、1/16秒のシャッタースピードで撮っていたそうだ。もちろん、デジカメでもないし、手振れ補正もない、オートフォーカスさえないわけで、この写真はすごい。
 映画の予告編でも見られるが、ハービー・ハンコックがフランシス・ウルフの真似をしている場面がある。何度もテイクをくりかえすうちに、フランシス・ウルフが踊り出す(あるいは、なにか踊りみたいなことをしだす)と、それが決定テイクになる。
 今のBLUE NOTEオールスターズと、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターが共演するセッションは最高だと思う。ドキュメンタリー映画として優れているだけでなく、ミュージッククリップとしても満足させてくれる。
 ハービー・ハンコックは、ちょっと目を疑ったけど、1940年生まれだそうだ。ウェイン・ショーターにいたっては、1933年生まれ。ウェイン・ショーターの「マスカレロ」をロバート・グラスパー、アンブローズ・アキンムシーレ、マーカス・ストリックランド、リオーネル・ルエケ、ケンドリック・スコット、デリック・ホッジと演奏します。
 ちなみに、「BEYOND THE NOTES」というこの映画のサブタイトルは、リオーネル・ルエケがハービー・ハンコックについて語ったセリフからとられている。
「ハービーからは教えられる。いつもサポートしてくれる。ここぞというときにミスを犯しても瞬時に修復してくれる、顔も向けずにね。音楽に集中しているんだ。不安がない。きつくもあるけど、常にベストのサポートをしてくれるから。」
「楽譜にCメジャー7とあっても、ハービーは違うことを弾く。彼は音符を超えている(BEYOND THE NOTES)
のさ。」

 ウェイン・ショーターハービー・ハンコックマイルス・デイヴィスについて語っている。
 ウェイン・ショーターがあるとき、マイルス・デイヴィスにこう訊かれたそうだ。

「飽きたか?。音楽みたいに聞こえる音楽を演るのは?」
「思わないか?演奏できないみたいに演奏したいって」

 それから、ハービー・ハンコックのセリフは少し長いけど、そのまま書き写しておきたい。

「マイルスの振舞い自体が教師だった。ある時、64~65年のこと、その晩はすべてがうまくいって、私たちの演奏から音楽が溢れピークに向かっていた。そして、マイルスのソロ、しかも、見せ場で、私は見当違いのコードを弾いた。ひどい間違いだった。すべてが台無しだと思ったね。すると、マイルスは一息入れ、いくつか音を吹いた。そして私のコードを正当化した。いったいどうやって?。
 私は土下座する思いだった。私は誤りを裁いたのに、マイルスはそうじゃない。音楽の一部として聴き入れたんだ。おお、これは新しいと言って、そして、うまく取り込んだ。
 こんな風に私は教えられた。音楽を維持するばかりか活用することを。様々な形で価値を生み出していく上で、裁かない心は重要な美徳だ。マイルス・デイヴィスの人生から学んだレッスンだ。彼のグループから、そして瞬間的な営為から。」
 ほとんど「詩」ですね。
 監督のソフィー・フーバーがパンフに「ある若いミュージシャン」の言葉として引用しているのは、デリル・ホッジの次の言葉。

「一度もないね、音楽から彼らの敗北を感じることは。何と戦っていたにせよ、彼らは歴史的な何かを生み、私の人生に、自由と喜びをもたらし、私は書きたいと思った、人々に希望を与える音楽を」
 アート・ブレーキーの「フリー・フォー・オール」をバックにこのセリフを言われると、泣きそうになります。
 おことわりしておくと、このセリフはすべて、行方均さんの日本語字幕によります。パンフレットにすべて採録されています。

 いま、アメリカで先鋭化する人種間の対立に危機感を感じていることが台詞のはしばしに透けて見える。
 
 BLUE NOTE RECORDS は、その後、リー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」とホレス・シルヴァーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」という二曲の大ヒットを出した。そのために、経営が立ちいかなくなる。この辺の事情は、突っ込んでいくとたぶんもう少し何かあると推測したが、よくわからないものの、とにかく大資本に買われることになり、そして、それまでのような音楽家主体の録音ができなくなり、活動を停止するが、1984年にブルース・ランドヴァルによって、活動を再開する。
 そのころ、ヒップホップのミュージシャンたちが、BLUE NOTE RECORDS の音をサンプリングしはじめる。Us3が、ハービー・ハンコックの「カンタロープ・アイランド」をサンプリングしていいかと申し入れてきた時、「アルフレッドならどうした?」と考えて、「ブルーノートの全カタログを使っていい。アルバムを作ろう」と申し出た。
 こうして、BLUE NOTE RECORDS とヒップホップがつながり、ヒップホップを通じて、若いミュージシャンがジャズにもどってきた。
 スラムで生まれたヒップホップがおなじようにスラムで生まれたジャズとつながっているのは面白い。ヒップホップのミュージシャンは、そのメッセージ性においては、60年代を意識しているということに、この映画を観てはじめて気が付いた。
 ブルース・ランドヴァルが「アルフレッド・ライオンならどうしたろう」と考えたように、若いミュージシャンが、「60年代のミュージシャンならどうしたろう」と考える。そうして伝統をリスペクトすることが、人間性を回復することとイコールであること。それは、じつは、音楽そのものであるかもしれないと思った。

 「勇気を持ち、恐れないこと。勇気は傷つくからチャレンジなんだ。勇気を奮うこと自体がチャレンジだ。けれど勇気を持ってチャレンジするほど、不確実なものが味方になっていく」
 これは、別に人生論ではない。ウェイン・ショーターが即興演奏についてこう語っていた。