「自己責任」についてふたたび考える

もう、新年特大号がコンビニのマガジンラックに並び始めた。
今年の正月休みは長いので、どこかに出かけたいものなのだけれど、人ごみが苦手なので、それを思うだけで気持ちが失せてしまう。
一度だけ、川湯の野営場で年越しキャンプをしたことがある。あのキャンプ場は千人風呂に歩いていけることもあり、年越しキャンパーでにぎわうのはあの年ばかりではなかったのだろう。
年が明ければそのまま熊野に初詣するのもよい。海のほうに向けて下れば、紀州の正月は暖かい。大漁旗をあげた漁船が、波光きらめく港を埋め尽くしている。
不景気になってきたおかげで、来年は少し時間に余裕が持てるかもしれない。毎日が日曜日になったら暢気なことも言ってはいられないが、心づもりとしては、春になったら今度は400ccのバイクを買おうと思っている。
小林信彦アン・タイラーの小説を勧めているので早速注文した。
この人のこの方面でのオススメはまず間違いがない。ただ、政治方面での発言はほとんど見るべきところがない。三田村鳶魚が書いていたけれど、江戸っ子に政治は向かないのだろう。
小林信彦氏本人の言に沿えば、B型人間の発言はけっこうぶれるのだそうだ。ご本人が言っているのだから、間違いないのだろう。
いすずが期間従業員の途中解雇を撤回したそうだ。派遣社員は切られてしまうらしいが、ただ、派遣社員を雇っているのはそもそも派遣会社なのだから、雇用の責任は派遣会社にある。毎月かなりの金額をピンはねしているはずだから、こういうときに次の派遣先が決まるまで、いくらかの給料を払わなければならないという法的縛りを設けてもいいのではないかと思う。
でなければ、派遣会社はただの人買いにすぎなくなってしまう。事実、ただの人買いだと言うのならば、派遣業自体を禁止してしまった方がよいだろう。
なんとなく日本人らしいなぁと思うのは、正社員ならどんなバカでも首を切れず、派遣社員なら、優秀であっても、良心の痛みを感じずに首が切れるという派遣先企業の心理の不思議だ。
これは丸山真男の言う・・・何だっけ?
「権限への逃避」だったっけ。
責任逃れをするためだけに、正規雇用非正規雇用に置き換えてきたのだとすれば、お粗末な経営理念だ。もし、本当にリストラが必要なら、正規雇用でも解雇すればいい。リストラが必要だと責任を持って説明する勇気も信念もない。企業としてひとりの人に向き合うことができない。だから、社会的責任など感じることもない。
雇用の調整弁という言葉は、そういうことを意味する言葉なのだ。
私がこのブログを始めたころ、高遠菜穂子さんの事件が起きて「自己責任」と言う言葉がやたらに使われた。
そのころ「自己責任」と言う言葉を振り回した人たちが、今回の派遣社員の大量解雇という事態に対して「自己責任」と言う言葉を使うとしたら、おそらく、突然、真冬の寒空に放り出された派遣社員たちに使うことだろう。
村上春樹がエッセーで書いていたが、彼が一時期ヨーロッパ各地を転々としていたころ、イタリアで盗難事件にあった。確か、バッグを盗まれたのだと思う。
当然ながら悔しいので、そのことをいろんな人にしゃべった。各地を転々としているので、いろいろな国の人にしゃべったことになる。国によって反応がさまざまだったが、あるとき、日本人にしゃべった。すると彼は、
「それはあなたが悪い」
と言ったそうだ。
確認しておくけれど、村上春樹のバッグが盗まれたのであって、村上春樹がバッグを盗んだのではない。
こんなデリカシーのない反応をしたのは日本人だけだと書いていた。
日本人は被害者に冷たい。某大学の体育会系の学生が集団レイプをやらかしたとき、街頭でインタビューされた女子大生が、「レイプされた子が悪い」と言うのを聞いたこともある。

「濡れ衣」と言う言葉の語源をご存知だろうか。
罪人を裁くとき、容疑者に濡れた衣を着せて、乾くか乾かないかで罪のあるなしを判断していたという説がある。
この説を裏付けるのは「くがたち」の存在である。
ウィキペディアの叙述では
「あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということ」
とある。
阿部謹也によると、鎌倉幕府法では、訴訟沙汰になったとき、起請文を神社に奉納し、一定期間参籠してその間次のような現象が起こらなければ、真実だと認められた。いわく、
「一、 鼻血出づること。
一、 起請文を書くの後、病のこと。
一、 鳶、カラス、尿をかけること。
一、 鼠のために衣装を食わるること。
一、 身中より下血せしむること。
一、 重軽服のこと。
一、 父子の罪科出来のこと。
一、 飲食のとき、むせぶこと。
一、 乗用の馬、斃るること。」
どこかの教祖のたわごとではなく、鎌倉幕府の法律がこれだったのである。
特に、3番目のが笑える。
たとえば「私は悪くない」といって起請文を神社に奉納するとする。その後、カラスに尿をかけられたら、「法的に」私が悪いということになってしまう。
つまり、あの連中の言っていた「自己責任」はまさにこれじゃないだろうか。このときの心性をいまだに引きずっている日本人がいても別に驚かないつもりだ。くがたちの習慣は古代以前まで遡れるそうだ。
「くがたち」を是認する心にとっては、イタリアでバッグを盗まれたら、それは盗まれた方が悪いのであり、イラクでボランティアをしていて誘拐されたら、誘拐された方が悪いのであり、派遣社員をしていて突然解雇されたら、解雇されたほうが悪いのである。悪いことが身に降りかかるのは神意に叶っていないから。だから悪いことに見舞われるのは「自己責任」なのである、いまだに中世の迷信から抜けきらない人たちにとっては。
高遠菜穂子さんの事件のときの日本流「自己責任論」には、世界中の人が首を傾げたものだったが、その源流は、この文明以前の原始的習慣にあったのではないかと私は考えている。
人質の三人が帰国する空港に、わざわざ出向いて「自業自得」と書いたプラカードを掲げていた日本人。結局、もし心をカルチャライズすることをしなければ、人は原始的な混沌にとどまったままなのだ。21世紀だろうが、古代だろうが関係ない。
「自己責任」については、桜井哲夫の『<自己責任>とは何か』という名著があるので、そちらにあたってほしい。
どうもあの時と同じ『自己責任論』が、ネットをにぎわせ始めている気配。本来なら労使関係であるべき問題が、正規雇用者と非正規雇用者の労労関係にすりかえられようとしている。企業側の思うつぼだ。
大量解雇されたのは、その人たちが非正規雇用だったからではない。現に、新卒者の内定も取り消されている。明日はわが身なのに、非正規雇用者の自己責任とか言ってる場合だろうか。
責任ということでいえば、企業はもちろん社会の一員としての責任を負っている。
ノブレス・オブリージュと言ってもいいかもしれないが、しかし、彼らは貴族ではないのだし、彼らの利益は先祖伝来のものではない。社会から得た利益は社会に還流して当然だし、でなければ、彼らのパイも小さくなるばかりであるはずだ。
企業の社会性が問われている。社会的責任に背を向け、人々の信頼を失って、この先、生きのびていけるものだろうか。私はそうは思わない。
トヨタは社長の座を創業者一族の手に返すそうだ。未曾有の世界的危機というときに、世界的企業であるはずのトヨタが、結局、立ち返るところはそこか。
自分たちを支えてきた働き手たちを飢え凍えさせても、守りたいものは一族の利権か。それが世界的企業の発想かと思うとさすがに心寒い。