1940年体制

1940年体制―さらば戦時経済

1940年体制―さらば戦時経済

政権交代が現実味を帯びてきている。
細川政権時代に実現できなかった、官僚主導から政治主導へ、つまり、民意が反映する政治の実現を今度こそ成し遂げたいという思いが、当時、現場にいた民主党の人たちには強いことだろうと思う。
官僚主導の政治というが、その実態とは何なのかといえば、野口悠紀夫がこの本で指摘した「1940年体制」こそまさにそれだろう。
初版は1995年、新版は2002年に出版された本だが、今になってなおいっそう重要な指摘をふくむ書物だと思う。そんなに大部な書物というわけではないので、ぜひ一読されることをオススメする。
この本が指摘している中でもっとも重要なことのひとつは、単に長続きしてきた制度にすぎないものを、永遠不滅の原理と取り違えるなということだと思う。
他の国に較べて特殊な制度であるものを、ある一部の人たちは、「日本古来の」とか、「日本固有の」などといいたがる。そして、それが社会のニーズにあわなくなって変革しようとすると、「日本の文化に合わない」といいだす。
しかし、時代を少し遡って検証してみれば、その歴史は浅く、そもそもの経緯を考えれば、文化とは何の関係もないこともすぐにわかる。
それを考えもせずに文化の問題とすりかえようとするのは、精神的に怠惰だといっていいのだろう。
以前にも引用したが、妙木浩之の言葉にすれば「1940年体制」は「庇護社会」である。そこでは個人が体制に依存しきっていられる。だから、それがすでに機能不全に陥っている事実に目をそむけてまで、その中に浸っていたい。まさにゆでガエルの発想だ。そういう人たちが「年収300万円で幸せ」なんていう男を、年収一億に祭り上げている。グロテスクな光景だと思いませんか?
このブログでも今まで折にふれて取り上げてきた、日本の特殊な労働環境も1940年体制の根幹である。
年功序列賃金」、つまり年齢給、「終身雇用」そして「企業別労働組合」という日本的労使慣行。これが、「朝まで生テレビ」の貧困の回や、年越し派遣村のときに話題になった「正規雇用」であるが、これが正規でその他は非正規だとする感じ方自体が、私たちの感覚までも1940年体制に支配されていることをよくしめしている。
朝まで生テレビ」では「正社員クラブ」といわれていた、日本型雇用がうまく機能していたのは、バブル期まで高度成長が続いてきたからにすぎなかった。
「歳をとると給料が上がる」のが正規雇用だと思いがちだが、実態はそうではなく「若いときに給料を安く抑えられている」だけなのである。職務給も年齢給も生涯賃金が同額なのはいうまでもないが、比率的に若年層の社員が増えていく高度成長期の企業にとっては年齢給が有利だった。
しかし、低成長時代に入って「終身雇用」と「企業別労働組合」で労働市場が流動しない状況が企業を圧迫し始める。正規雇用を減らして非正規雇用にシフトせざるえなくなる。
また雇われている側にとっても、転職すれば「年功序列」は適用されないから、生涯同じ会社にいなければ、若いころに低く抑えられた分の給料を回収できない。高度成長が確実に終わったいま、これはよほどの大企業の正社員以外には有利とはいえない。もし、正規雇用のシステムのまま転職を繰り返すと、給料は永遠に不当に安く抑えられることになる。
この大不況の今でこそ正社員が有利ということになっているが、実際、私が接してきた派遣社員の中には、正社員にと請われても、断る人も多かった。その理由は、正社員になれば、今貰っている給料より安くなってしまうからだ。
派遣業が成長した背景には、高度成長が終わった時点で、この日本型の雇用システムが、企業にとっても、労働者にとっても、使い勝手が悪くなってきていたことがあるだろう。
次のような印象的な文章があった。

今後の経済発展は、明確なモデルが存在しないという意味で、きわめて不確実性の高い過程にならざるをえない。高度成長期においては、到達すべき目標が、先進工業国という形で現実に存在していた。したがって、将来のイメージは明確であり、企業は長期的な投資計画を策定するにあたっても、本格的なリスクを考慮する必要はなかった。しかし、現在すでに世界経済の先端にある日本にとって、今後の発展に明確なモデルはない。新しいリーディング・インダストリーも、政府が誘導して作り出すようなものではなく、マーケットの試行錯誤によってしか生み出されないだろう。多くの試みが失敗し、成功したものだけが生き残るという形にならざるを得ないのである。

トヨタが世界一の座を奪取したと同時に、さまざまな社会問題が噴出したことは象徴的なのかもしれない。
ライブドア事件の当時、「額に汗して働く価値・・・・」がどうたらこうたらとホリエモンを批判していた評論家がいた。私自身は額どころか全身汗みずくになって働いているが、こんなものに価値があると思ったことはない。もしそれに価値があるとしても、経済評論家の研究テーマにふさわしいかどうかは疑問の余地がある。
ホリエモンや村上某の事業が将来のリーディング・インダストリーになりうるかどうかはともかくとして、そこに官憲が介入したことが、まさに1940年体制のありようを物語っている。
新自由主義が日本をだめにしたみたいなことをいう人がいるが、私は新旧いずれにせよ自由主義というものが日本にあったことがあるのか疑いをもっている。
戦時下の体制が国全体を覆っている状況で、どんな自由主義も跋扈するはずがないと思う。