横浜のジャック&ベティで「ゼラチンシルバーLOVE」。
オープニングからかなりのあいだ一言の台詞も文字も入らない。延々と映像で引っ張っていく。映画全体を通しても、台詞は極端に少ない。その上説明的なものはほとんどない。これは私の好みには合う。
もっとも説明が必要なほど複雑なプロットではないが、筋立てがシンプルだから底が浅いということにはならないし、映画には、役者が動いているという感覚より、写真が動いているという感覚が必要ではないかとつねづね思っている。
もちろん撮影監督も操上和美自身だ。72歳の著名なカメラマンだが、これが初メガホンとあって、映像には惜しみなく力を注いでいる。隅々まで磨き上げたような仕上がりです。
主人公もカメラマンだが、こちらは挫折の淵に立っている感じ。
主人公の台詞
「自分が美しいと感じるものを写真にとっているだけです」
は、よく聞く言葉ながらなかなかの難問を秘めていて、美しいと感じるのは、被写体なのか、写真なのかという問いには簡単には答えられない。美しいのは写真なのか、被写体なのか。
以下、ややネタバレを含む。たいしたことは書かないけれど。
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主人公はある男に依頼されてある女の部屋を24時間ビデオに収め続けている。
(この設定はやや不条理だ)
偶発的な窃視者になっているわけだが、やがて男は映像をコピーしてモニターでチェックするようになり、そして、そのモニターの女を銀塩(ゼラチンシルバー)のライカで撮り始める。
男は何度か屋外でも女に接触する。だが、そのときは一枚の写真も撮れない。男は窃視者であり続けようとする。「美しいものを写真に撮りたい」と思うとき、自分と被写体の間の関係性を無意識に拒絶しているのだと、わたしは思った。
この映画を観ている私たちは非常に奇妙な立ち居地にいる。男が女をビデオで撮る。男はその映像を写真に撮る。映画はその無数の写真を映し出す。私たちはそのすべてを観ている。しかも、(ジャック&ベティ限定ですけど)映画の中にはこの映画館、ジャック&ベティが舞台に使われているので、観客は何層にも重なる現実と映像の入れ子構造の中に入り込んでしまう。
主人公のカメラマンが、映像ではない現実の女にカメラを向けたときに何が起こったか。あるいは、起こるべきなのか。
本当に美しい写真は、恋人にシャッターを切った一枚かもしれない。しかし、もしその愛が過剰になって、自分がいない一人のときの姿を知りたくなり、隠しカメラで覗き始めたとしたらどうだろう。
それまでの関係性は崩壊してしまうのではないか。そして実はその関係性自体が相手の存在そのものだったと気が付いても取り返しは付かない。あなた自身の存在もその関係性の中にあったのだから、あなたは自分と彼女の両方を失ってしまう。
この主人公は最初から自分がいないときの彼女を愛した。それ自体そんなに珍しいことではないと思う。普通はそれから自分と彼女の関係を作る方向の努力が(多分に喜劇的な努力が)始まるのだが、彼の場合は現実の彼女ではなく二次元の彼女を愛しすぎてしまっていた。
窃視した彼女が美しすぎたのかもしれない。
2008年に見た洋画の中で一番よかったのはローリングストーンズの「シャイン・ア・ライト」だった。ただ、あれはちょっと飛び道具ではあると認めざるをえない。映画というより、フィルムコンサートというほうが正しい。
「ゼラチンシルバーLOVE」はれっきとした映画だけれど、宮沢りえのイメージビデオと見れば、これほど上質なものはない。
まだ性懲りもなく、ちょくちょくグラビアアイドルの写真集を買うのだけれど、最近のは必ずといっていいほど、DVDが付いてきてそれが理由で値段が高い。このDVDの出来がまたどうしようもなくお粗末なのは知る人ぞ知るらむ。
アイドルDVDというものも別に存在する。一度、森下千里のを買ってあまりのひどさに愕然とした。ファンを唖然とさせるのだからものすさまじい。
かつての写真集にはいいものがあった。たとえば、酒井若菜を平地勲が撮ったものなど今でも記憶に残っている。
「ゼラチンシルバーLOVE」ほどお金がかけられないのはもちろんとしても、動画作品として質の高いDVDを作る努力をしないのは、出版界としてもせっかくの市場を腐らせることになると思うのだけれどね。