「重力ピエロ」

knockeye2009-05-23

 伊坂幸太郎の小説はこのところつぎつぎと映画化されることで話題になっている。
 私自身も「アヒルと鴨のコインロッカー」、「フィッシュストーリー」そしてこんどの「重力ピエロ」と立て続けに見た。が、実は、伊坂幸太郎という原作者の存在を意識したのは、今回が初めてで、ということは言うまでもないことだが、原作の小説はどれも読んでいない。
 「重力ピエロ」は、しかし、原作より先に映画を見てよかったと思っている。答え合わせは後に回したほうがよいというほどの意味である。
脚本の相沢友子は「この小説を好きだといってくれる人としか作りたくない」といったそうだ。つまり、この映画は、この小説を好きな人たちが提出した答案用紙でもあるわけなのだ。
加瀬亮がとくにすばらしい。「ぐるりのこと。」も「グーグーだって猫である」もそうだったが、迷いのない、輪郭のはっきりした芝居をする。
岡田将生も「ホノカアボーイ」のときとは大違いのシャープな印象。もっとも、「ホノカアボーイ」の責任は彼にはないが、でも、ああいうの見せられると、ツキということまで考えて、ちょいと二の足を踏むのもたしかだった。彼は「アヒルと鴨のコインロッカー」にもチョイ役で出ていた。それを考えると、今回のデキは「一皮向けた」とか「ばけた」とかいうほどがらりと変わったインパクトだ。
伊坂幸太郎は、多分、新しい世代が抱える時代意識をとらえている作家なのだ。
宮藤官九郎くらいまでは、まだ古い世代の残照を残しているような気がする。たとえば、パンクロックを取り上げたりすることなど。
しかし、伊坂幸太郎の世代には前の世代の太陽は沈みきってしまって、それは語られる記憶でしかない。彼らはもう自分たちの夜明けの曙光を見始めているのだと思う。
小日向文世がドラマの構造を支えていたのは確かである。ドラマが虚構だというなら、彼こそは虚構なのだが、家族という虚構が、世界の現実に抗して存在できるかという問いが無意味だと思うなら、映画なんて観にいかなければいいのだ。
この映画の中でもっとも現実的なのは渡部篤郎の役どころである。彼が最もありふれている。自分に嘘をついてはいけない。渡部篤郎小日向文世と、観客が住んでいる世界の現実はどちらに近いだろう?
だからこそ、小日向文世は子供たちに向かってこう宣言する。
「俺たちは最強の家族だ」
と。
意識的に「虚構」を生き、「虚構」をもって世界と戦うのだと。
「もし世界に神がいないなら神を作り出さなければならない」
といったのは「イージーライダー」のピーター・フォンダだが、いったん神を作ったなら、それを信じぬかなければならない。だから、小日向文世
「自分で考えろ」
といった神はきわめて正しい。
たしかに幸せは重力を超えた向こう側にしかないのだ。