「赫い髪の女」

knockeye2009-06-20

先週、予告したとおり、この土曜日は渋谷に映画を見に出かけた。
松涛郵便局前のBunkamuraとラーメン屋の角を、少しラブホテル街へ坂をのぼったところにある、シネマヴェーラという映画館で
神代辰巳レトロスペクティブ」
と題して、神代辰巳監督作品が連続上映されている。メニューは日替わりの二本立てで、今日は、「宵待草」と「赫い髪の女」。
前に書いたように、「赫い髪の女」は、ごく若いときに観て、いい映画であった記憶がある。しかもほんとうに若いときで、たぶんまだ観てはいけない年齢でもぐりこんだのかもしれなかった。
単に性への好奇心から忍び込んだ十代の少年に、男と女のナニカを理解できたとはとても思えない。きっと十代の性欲ははぐらかされただろう。だが、こう思ったのである、「なんかとてもいい映画を見たんじゃないか」と。
この歳になってそれを思い出してよかったと思う。そして、十代の私に言ってやりたい。
「おまえにはまだムリだ。だが、おまえは今、とてもいい映画を見たのだ、しかも、30年たっても色褪せないとびきりの名作を見たのだ」
と。
映画館を出た後、駅とは逆の方へ坂を上って体の震えが静まるのを待った。
よい映画では、科白が役者の肉体を通して消えてていくとき、役者たちの体臭をともなうように思う。
石橋蓮司宮下順子の、おそらく映画史に残る科白のやりとりを、ここに書き記しても仕方ないだろう。それは書かれた文字とは似ても似つかない、役者たちの叫び、吠え声、口臭としてあの映画の中に封じ込められている。
石橋蓮司の弟分を演じる若き日の阿藤海も、今とは別人のように生臭い。
後半、アパートのドアの前に立つ石橋蓮司のアップからラストまでの息をつかせぬ展開の緊迫感。
人が生きることの生臭さ、男と女が向かい合うやるせなさが胸に迫る、まさに「日本映画史上の傑作!」であった。