朝まで生テレビ 貧困の問題 その2

森永卓郎はどこかの大学教授だから、けしてバカではないはず。
それがどういうわけでテレビカメラの前であれほどの醜態をさらしたのか、というのは興味深い。おそらく彼はテレビのスタジオではなく、カウンセラーのスタジオに行くべきだったのだ。
きのう書き漏らしたけれど、議論が、今年の4月から政府が生活保護母子加算を打ち切った話になったとき、以下のような発言もしていた。
「なぜ切ったのか、みんなホンネを言わないから私が代わりに答えます。
何が起こったかといいますとですね、1985年に円高が起こって日本の平均所得が世界で一番豊かになったんですよ。ところが豊かさの実感っていうのがまったくない。そこでね、政府でものすごく議論が起こったんです。どうして幸せの実感がないんだ。
で、そのときの結論がみんなで一律に豊かになったから自分たちは幸せを感じないんだと、だからどうしたら幸せになれるかっていったら、自分たちだけが金持ちになって、まわりどんどん貧乏なやつを増やしていけば、自分たちは幸せになれるんだって、日本政府は考えたんですよ。だからどんどん・・・(このあとブーイングで聞こえなくなります)・・・そうでしょう。それが小泉構造改革じゃないですか!」
この森永卓郎の議論(というか)だと1985年からいきなり小泉構造改革に跳んでいるが、事実はそのあとバブルが崩壊し、失われた10年といわれる出口の見えない不況に沈んでいたのである。もし忘れているのだとしたらちょっとうっかりすぎるし、故意に飛ばしたのだとしたら、論者としてフェアじゃないのだ。
森永卓郎が、なぜこんなことを言ったのかは理解に苦しむが、言っておきたいのは、現実にこの4月から手当てが削減された母子家庭で、この発言を聞いていたとしたらどう思うだろうかということ。自分たちのために議論してくれていると思えるだろうか。
このあと、与野党の水掛け論になっていたが、
田原 総一郎「ちょっと待った!今のは、細かくなりすぎてわかんない。湯浅さん・・・」
湯浅 誠「細かくなりすぎてわからないです」
田原「はいどうぞ」
湯浅「母子加算の削減は、2002年から始まった社会保障費の2200億円の削減の中で、差し出されたんです。それは削減ありきという中できたものなんですね。だから、ほとんど削るものがない中で、それでもまだ一般世帯よりも、一般の生活保護を受けている母子よりも、まだ高いからということで削ったんです。削れるところを捜してたんです。
だけど一般の母子世帯って言うのは、貧困率66%なんです。つまり三人に二人の子どもは貧困なんです。それより比べてちょっと高いからといって削るってのは順序が全く逆転してたんですね。こっちを上げなきゃいけなかったのが下げちゃったんです。
だけど、そのときには子どもの貧困率なんて話題にならなかった。誰も注目しなかったんです。だけど今はそういうことが問題になって、これ全体を底上げしなきゃいけないという時期になったんですよ。だから2200億円削減も来年辞めるって言った。だからそこは今まで見なかったことを反省して、これは辞めましょうと政府自ら言ってほしいんですね」
森永卓郎は、この湯浅誠の隣に座っていたのだけれど、大学教授として、論者として、あるいはただひとりの大人として、恥ずかしくないものだろうかと思った。
森永卓郎はひとまずどうでもいいとして、湯浅誠の説明のなかでひとつ補足しておくべきなのは、社会保障費から毎年2200億円削減するといっても、社会保障費全体は増え続けているという点である。
何も手をつけなければ社会保障費は毎年一兆円近く増え続けるそうなのだ。毎年2200億円ずつ削るというのは、毎年7000億円程度の増加に抑えるという意味であるが、国の歳入が増えない中、これは大きな負担であることには違いない。
世界のどの国も経験したことがないといわれる急速な少子高齢化が、その背景であることは間違いない。
良妻賢母の幻想を捨てられない戦中派のマザコン政治家が、時代に逆行して男女差別の是正を怠ったことが、女性に仕事か結婚かの二者択一の選択をつきつけた、言い換えれば、働く女性からは結婚を奪い、結婚した女性からは仕事を奪ったともいえる。
そのことが一方では女性の自立心を阻害したとも言える。先月にも紹介したが、結婚したら収入の大部分を男性に頼ろうという意識を持つ人は、欧米では1〜2割にすぎないのに対して、日本では7割にのぼるそうだ。
きのう争点だった年功序列という日本型の賃金体系は、この意識をバックボーンにもっている。
だから、少子高齢化という現実が、事実上、今までの日本の雇用のあり方にNOを突きつけているともいえる。
私は、民主党をはじめ野党が主張するような非正規雇用の全廃は、時代に逆行していると思う。大前研一が以前いっそ正社員という雇用をなくして全員派遣社員になればよいのではないかと提言していたことがあるが、私もそのほうがセーフティーネットの網をかぶせやすいと思う。
非正規、正規の両方を経験してきて思うことは、正社員という存在は非常に曖昧なのである。
たとえば、ボーナス(賞与)というものがこの国にはあるが、あれは給与なのか、給与じゃないのか。賞与は給与なのかということ。それはたとえば貯金と預金はどう違うのかという問題ともよく似ている。
なぜああいう曖昧なものがあるのかといえば、それは年功序列定期昇給があるからだろう。無駄に年取ってるだけの社員に高い給料を払う代わりに、ボーナスを抑えてバランスをとる。ろくでもないシステムというのは弥縫策の塊になり勝ちである。
またこれも昨日書いたところで話題になっていたことだが、新しい産業といわれて思い浮かぶことは、ことしついに太陽光発電パネルの生産シェアで日本のメーカーがドイツのメーカーに抜かれたというニュースである。私の記憶ではこの分野では80年代ころまで、日本はほとんど独占状態だった。
ところが、政府は原子力政策に固執してむざむざ民間の活力をドブに捨てた。
こうして考えてみると、失敗は社会の変化に対応してこなかったことであるように私には見える。
2002年、私は、ロシアをバイクで横断してモスクワに着いた。モスクワ名物のひとつに地下鉄がある。モスクワの地下鉄の駅は、大理石の柱が立ち、ゴシック風のアーチ天井で覆われ、実に美しい。
しかし、電車そのものは私が中学のころ乗っていた阪急電車を思い出させた。
この地下鉄ができたころまでは、ロシアはアメリカと世界を二分する超大国だった。きっとその名残りが当時最先端だったこの地下鉄なのだろうと私は思った。
だけど、彼らはその後、時代の変化についてこられなかった。
今、確かに日本は、アメリカに匹敵する経済大国であるが、でも、日本も時代の変化に対応できなければ、ロシアと同じようになるだろうと思った。
もしかしたら、森永卓郎失われた十年にふれないのは、本当に忘れてしまっているのかもしれない。昔はよかった、昔に戻ろう、という人たちは、記憶の中で、過去を作り変えてしまうのだろう。しかし、現実から目を背けていては、未来を作ることはできないと思う。