世界で最後に滅ぶ社会主義国

 野口悠紀雄のこの記事を読むと、日本の経済はあと9年しか持たないらしい。

日本国債のDoomsday(終焉の日)はいつ到来するか?
 540兆円÷60兆円=9
 実にわかりやすい。
(じゃあ、みんな、これからの9年間、よろしくね。盛り上がっていこうね。)
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 遅くとも、バブルが崩壊したころには、行財政改革が必要なことは、国民的合意だった。
 既得権益のふところに吸い込まれていく税金のばらまきや、新芽の発育を阻害する規制の雁字搦めが、日本社会の活力を奪うだろうことは、もっとずっと早くから指摘されていた。
 今の財政の破綻は、避けがたい結末であったわけでも、定められた運命であったわけでもない。この惨劇には、はっきりと犯人が特定できる。それなのに、しっぽを振って、そいつらのいいなりになっている心理が、私にはわからない。

 世界経済を読む知恵がない閉鎖国家日本
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 小沢一郎をして「政権交代の最大の功労者」とする報道には、開いた口がふさがらない。政権交代を実現したのは国民でしかありえない。
 政権運営の経験のない政党に、308議席という圧倒的な多数を与えた。あのとき、国民が、ハードランディングを覚悟しなかったとでもいうのか?
 この先も、民主党の支持率は落ち続けるのだろう。覚悟をきめた一兵卒を、見殺しにした主君に、信頼は帰らない。あまりにも当然だ。
 政権交代の夏、国民が託した思いの1000分の1の覚悟さえ、彼らの胸の内にあっただろうか。
 せっかく、身命を賭しても悔いのない舞台に立っていたのに、骨を惜しみ、身を惜しみ、恥を惜しみ、金を惜しみ、命を惜しんだ。
 民主党の政治家たちを見ていると、フランツ・カフカの「掟」のラストを思い出す。確か、こんな風だ。

 今や老いさらばえ、死に瀕した男の耳元で、門番は言った。
 「この門は、誰のものでもない、ただおまえひとりのための門だったのだ。私ももう行かねばならない。」

 そして、門番は門を閉じていってしまう。
親鸞聖人にはこういう言葉がある。
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれは、ひとえに親鸞一人がためなり」
 改革者はいつも一人行くものである。
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 週刊現代に寄稿されている、堺屋太一の「2011年の読み方、考え方」にも
「かつて日本は『世界でも最も成功した社会主義国』と言われましたが・・・」
「今のような政治が続けば、10年以内に・・・」
「世界で最後に滅ぶ社会主義国
と称されるだろうと書いている。
 *補足(この堺屋太一の文章は、ネットにないので、もう少し引用させていただいて付記する。このブログは、常に睡魔との戦いであることをご理解いただいてご了承いただきたい。
 堺屋太一は、今の民主党政権の延長線上に、純然たる社会主義者だった、黒田了一大阪府知事の‘貧者優遇政治’が重なると指摘している。
 「今日、大阪市は、日本一ホームレスが多く、20人に1人が生活保護を受ける悲惨な大都市になりました。」
 「カネ持ちがいなくなり、生活保護の受給者が増えると、この国を動かすのは官僚です。」
 「もっと言えば、日本の社会主義を望んでいるのが官僚です。」
 「組織としての官僚システムは日本を滅亡に導いている。」)
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 日本が社会主義国家か、という問いには、たとえば、週刊ポストのブックレビューに、森永卓郎が『武士の家計簿』を取り上げて、
「貧しかった下級武士は、自らは厳しい倹約をしながらも、使用人の雇用と生活を最優先で守った」
として、
「経営者が武士道を取り戻すことが、日本経済が元気を取り戻すカギだ」
と書いている。(‘ほんとに’書いている。)
 封建社会と、近代の雇用関係を、一緒くたに論ずることにも、首をかしげるが、それはひとまず措くとしても、少なくともこの人の発想のなかには、社会が絶え間なく変化していくという発想は全く欠如しているようだ(それとも、そもそも、「実社会」の感覚がないのかもしれない)。
 「朝まで生テレビ」で、「森永さん、日本は鎖国すべきなの?」と、田原総一朗に突っ込まれていたのを、また思い出した。
 *補足(森永卓郎については、触れない方がよかったかもしれない。彼が武士道について何かを言うべき何者でもないことは、ほとんど言うまでもないが、あまりにもばかばかしかったので、つい。
 私が、この人の異常さに気づいたのは、ネットでもかなり話題になった、朝まで生テレビの「貧困」をテーマにした回であったが、どうも、それ以外のシーンでも、同様の無責任な発言をしているらしい。 
 目つきに、すこし異常なものを感じる。)