英一蝶


板橋区立美術館成増駅西高島平駅の中間地点くらいにある。一本バスを逃すと、田舎ものの感覚としては、歩いた方が早い距離。じっさい、このまえ来た時は歩いた記憶があった。
駅から美術館まで赤塚植物園への表示をたよりに歩く。何故か美術館の表示は直前まで出てこない。場所としては東京大仏のとなりである。
途中で道を尋ねた人に「歩くんですか?」といわれたけれど、それほど遠くはないっす。ただ、きょうはよい天気でしたね。それを見越して半袖で来ていてよかった。
「一蝶リターンズ 元禄風流子 英一蝶の画業」
という展覧会が開かれています。
英一蝶は、江戸時代もまだ始まりのころ、狩野派の門をたたいて画業をスタートさせます。その狩野派も、まだ探幽などが生きていた時代。探幽の弟、安信に弟子入りしたそうです。
ということは、幕府の御用絵師のはしくれであったはずなのですが、途中でいま少し巷で話題になっている、浮世又兵衛こと岩佐又兵衛をライバル視し、浮世絵をこころざします。
浮世絵もこのころは創世記なわけで、後の世のように画題がかたまってきていない。とにかく浮世のことは何でも描く。当時の人々の暮らしがいきいきと描かれています。
はじめは多賀朝湖という名でしたが、三宅島に流罪になってから島一蝶と名乗る。というのも流罪のあとも絵の注文が絶えなかったようで、江戸から画材が届けられ、彼の絵は江戸に流布し続けたわけですが、さすがに世を憚ったというわけでしょう。
綱吉の崩御大赦となり江戸に帰って後、英一蝶と改名。ことしはその御赦免300年なのだそうです。
上に揚げたのは<布晒舞図>。線が伸びやかですよね。驚くのはこの線でほぼすべてを描いているところ。筆の運びにけれんみがない。字が書き込まれているものもありますが、その字と同じリズムで絵が描かれているようにさえ思います。
富士山から不動明王徒然草仁和寺の坊主、吉原のお稚児さんにいたるまで、すべて同じ筆運びで描かれているように見えてしまいます。だからどんな画題でも描ける。技法が無意識に画題を取捨選択することがない。
おかげで、後世のわたしたちは当時の人たちのいきいきとした暮らしぶりを垣間見ることができるというわけ。
そして面白いことに、このひと、たいこ持ち、幇間さんを生業としていたそうです。男も女も、武士も庶民も神様も、みんなおんなじ扱いなのも、その目線で描かれているためかもしれません。