石川遼と大橋巨泉

お正月番組、石川遼とんねるずとゴルフ対決をしていた。林ぎりぎりのセカンドショットをドライバーで一閃、地を這うような低い弾道でグリーンに寄せていた。
彼を見ていて思い出してしまうのは、大橋巨泉週刊現代のコラムで「石川遼が授業に出ないのをマスコミが批判しないのはおかしい」と書いていたことだ。
しかし、賞金王争いをしているプロゴルファーが「期末テストがあるので欠場します」とか言うわけないと、私は思う。
日本の教育システムは、そこで学んだことが社会に出たとき一切役に立たない。日本の企業のほとんどが‘on the job training’で、実際の仕事は就職したあと、一から学ぶことになるからだ。東大を出ていようが、京大を出ていようが、そこで学んだことのほぼすべてが就職先の企業では役に立たない。
ひとりの子供が大学を出るまでおよそ3000万円ほどの学費がかかるそうだ。言い換えれば、日本の社会は一人当たり3千万円を教育に投資しているが、それがすべて泡と消えていることになる。せいぜいが‘協調性’などというわけの分からないものを身につけるのが精一杯というところだろう。驚くべき浪費じゃないだろうか。
‘on the job training’の問題点について以前に書いたときは、企業の論理で教育されてしまうために、‘愛社精神’などというものは植えつけられるが、一般常識としての職業倫理が育たないという点を上げたと思うが、もうひとつの問題として、新しい産業が生まれないということを上げておきたい。
教育現場での偏差値競争は、そのまま企業内での出世争いに取って代わる。その意味では、明治以降の日本では、日本という国自体がひとつの大きな企業体で、教育システムは子どもたちを偏差値という篩にかけるたためのシステムだったといっていいのかもしれない。
そこに暮らす人の福祉ではなく、国家が近代工業化して、高度成長していくことが至上命題だった時代には、そういうことが異常に感じられなかったとしても仕方ないかもしれない。
昨日も村上龍が主張していたけれど、明治以降の近代工業化と高度成長という時代が終わり、パラダイムが変化している。そのことは肝に銘じておくべきだ。
それで、最初の話に戻るのだけれど、私は、石川遼は高校の授業よりもツアーを優先すべきだと思うが、いかがだろうか。
子ども手当てはそれはそれでよいとして、教育と実社会のこの断絶は、早く改善しないとまずいと思う。たぶんもうとっくにまずいと思う。
事業仕分けノーベル賞受賞者たちが批判していたが、教育は一握り(ひとつまみ?)のノーベル賞学者のためにあるのではない。(だいたい彼らのうち何人が日本の大学にいるのか?)
一つがいの夫婦がその生涯賃金のうちから、子どもの将来を思って費やしている何千万ものお金が、子どもたちを全く幸せにしないとしたら、それは悲しすぎると思う。