「その街のこども」劇場版

 私自身が‘その街’にいたときは、中身はともかくとして、すでにじゅうぶんにおとなだったし、あの頃の私は、それでなくても、無為の岸辺にうちあげられているか、停滞の水底に沈んでいたので、私の個人史は、そこにいたにもかかわらず、あの未曾有の大災害とは、うまく噛み合わない。
 当時、働いていた工場では、夜勤最後の休み時間が5時45分からだった。もうすぐ終業というその休み時間には、クリーンルーム出入りの手順がわずらわしいこともあり、現場に残っているのは私だけではなかった。
 揺れが来たのは休憩に入った直後で、階上の休憩室に行こうと、エレベーターに乗った何人かは閉じ込められ、そのうちの若い子がひとりパニックになり、レスキューが到着するまで、大声でわめき続けた。
 仕事が止まったその後の幾夜かは、燃え尽きない石油タンクが夜空を焦がしている映像を、職場のテレビで漫然と眺めていたものの、私の街は、神戸より震源地に近かったにもかかわらず、目立った被害もなく、私の日常はすぐに旧に復した。
 私にとっての震災はそれですべてだが、被害に遭った人たちにとっては、それは始まりにすぎなかったし、すべてのものがそうであるように、始まってしまったものは終わらない、と、それさえ、当時はわかっていなかった。
 だから、こう言えるかもしれない。私にとって震災はまだ始まっていない。目の前にあったのに、始まらなかったのだ。
 そのことについて、私がこころのどこかで罪悪感を感じるのは、実は、不遜なことだ。
 あの一瞬で、6000人以上の人が命を落としていたのに、私は何もしなかった、ということは、私自身が虫けらほどのちっぽけな存在だ、という、改めるまでもない事実を、鼻っ面に突きつけられたにすぎないし、そして、死んだ6000人以上の人たちも、同じくちっぽけな存在だったということを、躍起になって否定しようとしても、きれい事を並べ立てても、それで残された人たちの傷が癒えるはずもない。
 残された人たちも、やはりちっぽけな存在だという悔しさを、踏みにじられて、噛みしめているだろうと思っている。おそらく、友人と手を握りあうことすら、簡単にできないほど、ちっほけである悔しさを。
 関西以外の人にはわかりにくい話から始めると、森山未來佐藤江梨子の関西弁は、彼ら自身関西出身だから当然だが、‘関西を離れて、ながく使っていない関西弁’という微妙なニュアンスまで含めて、自然なしゃべり方になっている。これはほんとに台本なんだろうかと思うくらいだ。
 冒頭に、佐藤江梨子が、自分が関西弁を使っていることに驚くシーンがあるが、少々強引な出会いに見える森山未來とのファーストコンタクトも、あれが実は、シンパシーの根底となっているだろうと、関西を離れて長い人間には説得力があった。
 それは、脚本の渡辺あや自身の感覚でもあったろうと思う。
 パンフレットに寄せられたエッセーによると、井上剛監督から
「震災そのものではなく、その後を生きる普通の人々の、語られない思いをなんとかドラマにしたいと考えています」
と、脚本執筆の依頼が届いたとき、熱意と志を感じながらも最初は躊躇したというが、

まるで作品に意志がある、ように感じることがあります。この世にうまれ、しかるべき形となって誰かのもとに届きたい、という強い意志が私たちを引き寄せ、動かしている。そのように感じるときはだいたい、私個人がちまちま悩むようなことは一切役に立たないもので、このときもまた同様でした。

・・・私が脚本に書いたのは、すべて街がきかせてくれたことのような気がしていますが、中でもいちばん大切なことは、やはり東遊園地での追悼式典が教えてくれたと思っています。

 追悼式典がもうすぐ始まる、東遊園地へ渡る横断歩道の信号が変わる、そのときの勇治と美夏の別れのシーンは、「ローマの休日」のラストより、ずっと胸が締め付けられる。‘その街’のこども達が、この映画のように出会うことは、現実にはないとしても、このドラマが、現にこうして生まれ落ちる、その背後にあるだろう無数の祈りが、この映画を見終わった人の胸を満たしていないとは、私にはとても思えない。