フェルメール、グランヴィル、ユキワリイチゲ

knockeye2011-03-10

 花粉症がなぜ治ったのかわからないと書いたけれど、よくよく思い出してみれば、花粉症がいちばんひどかったころに、卵を食べるのをやめたのを思い出した。ことし花粉症がややひどいのは、去年あたりから、毎朝、エッグサンドを食べているせいかもしれないと、先日、朝食を食べつつ思い当たって、しばらく卵断ちをすることに決めた。
 同じ職場のお身内に不幸があり、お通夜にうかがった。風邪のような症状で病院に運び込まれて、一週間も立たないうちに亡くなられてしまった。まだ小学校にあがったばかりだったので、思い出の品をかき集めても埋まらない祭壇は、参列した人たちの涙を誘っていた。
 正宗白鳥の臨終について触れたときに、人間は生物として死ぬだけでなく、社会的存在としても死ぬ、と書いたが、ほんとうは、人間は、社会的存在としてのみ死ぬのかもしれない。生物としての死は、私たちが‘死’と呼びならわしてきたことを、狭義に限定しているにすぎない。
 ‘死’という言葉が、‘死’という現象の先にあるのだから、人間が‘死’を死ぬときは、言葉の‘死’を死ぬといえるだろう。
 ときどき「死は無にすぎない」というひとがあるが、ちょっと理性的に聞こえたとしても、私たちが、死について何も知らないように、無についても何も知らないのだから、それは単に言葉を入れ替えたにすぎない。
 親鸞聖人は‘悉く能く有無の見を摧破せん'と正信偈に書いた。そのほんとうの意味を私は知らないが、少なくとも仏教は、有る側にも、無い側にも立たないのだろう。
 植村正久牧師に祈れと言われて、国木田独歩が「祈れない」と泣いて、死んでいったことを、正宗白鳥が言ったとき、植村環牧師は、聖トマスの「見ずして信ずるものは幸いなり」などの話をしたそうだが、私に言わせれば、見ずして信じているなら、それは見ているのであり、信じて見ていないなら、それは信じていないのである。その言葉が正宗白鳥の心に届いたとしたら、それは確かに奇跡だと言っていい。見ずに信じられるなら、それほどの幸せはないはずだから。
 おそらく、死は無だと人が言うとき、きっと、失われたすべてに拮抗しうる唯一の言葉として‘無’を選んでいるのだろう。
 まだ、先週末のことを書き終えていない。
 小林清親とヴィジェ・ルブランと、千代田線沿いに見て回った後、どう行ったか忘れたけど地下鉄で渋谷に出て、Bunkamuraミュージアムで、フェルメールの<地理学者>を観た。
 フェルメールの柔らかい光と質感はいうまでもないが、フランドル絵画は、わかるようでわかりにくく、意表を突かれるのが面白い。ネズミが4匹踊っているくらいでは驚かないけれど、アドリアーン・ブラウエルという画家の<苦い飲み物>っていう絵は、飲み物の入った器を手にした男が、苦そうに顔をしかめているだけの絵なのである。
 美術館にあるから、「ああそうなの」くらいの感じで通り過ぎるけれど、この絵を買って所有していた人は、これをどうしようとしていたのだろうか。あまりにも理解不能なので、思わず絵はがきを買ってしまった。
 日曜日は、練馬区立美術館で鹿島茂コレクションの「J.J.グランヴィル展」を観にいった。
 オノレ・ドーミエと並び称される風刺画の人らしいのだけれど、ドーミエのような陰鬱な感じはなく、特に晩年の、フルールととかエトワールなど、花や星を擬人化した絵は、シンプルで、ほほえましくさえ感じられた。
 最後に、新宿の東郷青児記念美術館で選抜奨励展。
 居城純子の<のびるかげ>、流麻二果の<地鳴り/Call Note>、今村綾<line>が気に入った。
 秋山早紀の<食パン オムレツ ライン引き 鉛筆>、竹原祥司の<樹のある馬場>、渡邉俊行の<HITOTSUKI>も好きな感じ。
 小さいものでは、枝史織の<舞台>も好きです。
 でも、ここに、<苦い飲み物>を並べてみたい気もするな。新しいよなぁ、<苦い飲み物>。
 この日は四月の陽気だったので、グランヴィルの美術館のポスターを見て、牧野記念公園に脚を伸ばしました。牧野富太郎博士の旧居が公園に整備されているのかな。寒桜が咲き始め、ユキワリイチゲが盛りでした。