テレビとテレビが生んだ大衆の終焉

 このところ節電という意識もあって、テレビをコンセントで切っている。リモコンで‘ピッ’とつかなくなると、テレビってのは見ないもんだな。
 ひろゆきの‘ネット炎上観察記’で知ったのだが、去る6月15日、関東の民放19:00台の視聴率が全局10%を切ったそうだ。
 わたしみたいにまだ地デジ化をすませていないと、このままテレビを見なくなるんじゃないかという気もする。「フラッシュフォワード」の続きが気になるくらい。それにしたって日本の制作じゃない。
 テレビの時代が終わりつつある今になって思い返してみると、テレビは、日本人の‘均質社会幻想’を根底で支えたのだろう。あるいはその生みの親か。
 つまりテレビは、年俸5億円の金本に向かって、貧乏人が「頑張れ!」っていえる装置だった。大会社の社長や、芸能界のスターが、土下座してくれる装置だった。
 小泉純一郎竹中平蔵のせいで‘格差社会’になったなんてウソだと私は言い続けてきている(小泉政権以前から、鳩山由紀夫は御殿に住んでる。あなたはどんなお住まいですか?)けれど、もしかしたらテレビに飼い慣らされた大衆にとっては、何かがウソかホントかはどうでもよくて、みのもんた古舘伊知郎のもっともらしい独唱に、コーラスとして唱和することが、彼らの住んでいる‘均質社会’にとっては重要な儀式だというにすぎないのかもしれなかった。
 日本人の‘均しさ’に対する信仰。ダンボールの中の無精卵のように並んでいる人間の姿を想像するとすこし不気味だ。 
 自民党菅直人おろしの戦略を‘政治とカネ’に変えたらしい。マスコミに‘戦略’と見抜かれている時点ですでに戦略として破綻している。
 それに、今朝の新聞によると、自民党政治資金団体国民政治協会」本部の政治資金収支報告書、2009年度の個人献金総額は、72.5%が電力9社の幹部およびOBからのものだったとすっぱ抜かれていた。現職役員の92.2%が献金しているという実態もわかった。献金時期も12月に不自然に集中しているそうで、個人献金に偽装した企業献金であることは誰の目にも明らかだ。‘政治とカネ’という意味では、自民党は党ぐるみ足許に火がついた。
 こうして菅おろしの舞台裏が国民に見えてしまうと、小手先の戦略を変えてみても、国民に訴える力がない。それに、震災と原発事故をそっちのけで、いつまで政局を弄り回すつもりなのかという批判が、それこそ津波のように自民党を飲み込むかもしれないのだ。
 書いていて空しいのだけれど、繰り返し書いているように、私は別に菅直人を応援しているわけでもなければ、政治家として買っているわけでもない。しかし、その菅直人に、有効な打撃の一つ打てる政治家さえいない。ずっといっているのは、菅直人を引きずり下ろしたあとどうするんだというビジョンを誰も持っていないじゃないかということ。それでは、何のために菅おろしを画策しているのか、まるでわからないし、むしろ、震災と原発事故を政局に利用しようとしたんだという認識がじわじわと広がりつつあると思う。
 みんなで菅おろしに夢中になっているうちに、気がつけば政策を提案しているのは菅直人ただひとりという状況で、いつのまにか、政治のイニシアチブは完全に菅直人に握られている。これほど壮観な阿呆の絵巻物、痴呆の阿鼻叫喚図をみせられることになろうとは。
 ダイヤモンドオンラインに「公務員制度改革はかくて骨抜きにされた われらは敵だらけの中でいかに戦ったか」というタイトルで、高橋洋一と古賀茂明の対談が掲載されている。
http://diamond.jp/articles/-/13257
必読だろう。