「コクリコ坂から」

 スタジオジブリの作品「コクリコ坂から」は1963年の横浜が舞台になっていると聞いて、観に行った。

と始まる、小林信彦のコラムがすごくいいので、観に行った。

 「コクリコ坂から」は美しいタイトルだが、企画・脚本がその時代を知っている宮崎駿氏だから、横浜が霧笛のひびく町から公害の町に変わってゆく姿がとらえられている。

 東京オリンピックの前年という設定がうまい。原作は1980年になっているとパンフレットにあったが、1963年でないと、戦争につながるこの物語は成立しない。古い建物をめぐる高校での紛争も、63年ならあり得たかも知れない。

 同じ号の週刊文春には宮崎吾朗監督のインタビューも載っている。

阿川 「これは高校生たちがクラブの部室棟になっている古い洋館の取り壊しを阻止しようとするストーリーに、主人公の海ちゃんの恋や出生の秘密が絡んで・・・。原作は少女漫画だそうですね。
宮崎 「そうです。1980年に『なかよし』に連載されていた漫画です。
「宮崎さんはもともとご存じで?」
「ええ、子どもの頃、毎年夏、信州にあった祖父の山小屋に親戚が集まっていたんですけど、従妹のひとりが『なかよし』を持って来てたんです。それれがちょうど『コクリコ坂から』が連載されている時期で、でも、全部は揃ってなかった。始まりと終わりはなくて、途中だけを毎年来ては読んでいるという。僕が中学生の頃ですね。」
(略)
「後に、宮崎駿が一本作品をつくり終わるたびに、山小屋で夏休みを過ごすようになって、古い『なかよし』を引っ張り出しては読んでたんです。そこにはジブリ鈴木敏夫(プロデューサー)、押井守さん、庵野秀明さんといった人たちも集まっていたんですが、夜な夜な、『コクリコ坂から』の最初はどうなっているのか、結末はどうなるのかを議論してたんですよ。議論というか妄想というか、まあ遊びですよね。「映画化できないか」も含めて。

 このように自然に熟成され生まれ落ちる作品の方が、呻吟の末に生まれた作品より、長く人の記憶に住み続けることは往々にしてある。
 絵の力についてもふれておきたい。
 CGとか3Dなどが、絵の技術の一つとして花を添えたとしても、それが表現の領域を広くするとは限らない。実際、3Dの映画では、3Dの効果を意識して、かえってアングルに制限がかかっている。
 CGも3Dも別に否定しはしないけれど、要はどんな美意識があるかなのだし、それを一枚の絵として表現することの方が重要であることは、常に変わらないだろう。
 台詞の、ことばとしての正確さにも感心させられた。
 この映画が生きているのは登場人物たちの力づよい台詞に負うところが大きいだろう。
 プロダクションノーツによると、

 1963年は宮崎吾朗監督が生まれる前の時代。ということで吾朗監督は、その時代に制作された日活の青春映画を参考にしたという。 その中でも特に参考にしたのが、吉永小百合主演で世に送り出された「赤い蕾と白い花」(1962)、「青い山脈」(1963)、「雨の中に消えて」(1963)、「美しい暦」(1963)。主人公たちの言葉には裏がない。そして話すテンポが速い。自分の思いを躊躇なく伝える。そういった当時の日本人の話し方、コミュニケーションの仕方が「コクリコ坂から」に反映された。

 映画の中で、ガリ版刷りの新聞に、一編の詩が登場するが、詩が、若者が自分を表現することばとして、この頃まではまだ普通に存在したと思う。
 ことばが、社会を成立させている、もっとも基本的なツールなのだとしたら、ことばの力が衰退しいくことは、社会が衰退していくことと同義だったかもしれない。
 風は海と陸を行き来する。旗は、その風をことばに変える。坂の上で旗を揚げる少女が、この映画の中心に立っている。