「横道世之介」

横道世之介

 映画「横道世之介」は、1987年の春から1988年の春まで、ある大学生の1年を描いた映画。
 見終わった後、横道世之介はファンタジーなのかどうかとちょっと考え込んだ。
 昔、誰の文章だったか忘れたけれど、「フーテンの寅」をこよなく愛する外国人女性に、‘寅さん愛’をさんざん聞かされた後に
「でも、あんな日本人は現実にはいないでしょ」
といわれて、ぐっと返事に詰まったというのを読んだことがある。その人は、心の中でだけ
「でも、いるかも知れませんよ」
と答えたそうだ。
 1987年という、「三丁目の夕日」や「コクリコ坂から」よりはるかに‘たった今’なそのときに、横道世之介が‘いたかも知れない’と思うその切実さの度合いによって、この映画の味わいは変わってくるだろう。
 冒頭の、たぶんCGだと思うけれど、1987年を再現した新宿駅東口は、この映画を成立させている魔法、それは‘時’だと告げている。
 それで考え込んでしまった。それはどんな‘時’なのかと。どんな‘時’が流れたのか。おそらく私たちは、1960年代ほどには1987年を共有していないだろう。だから、この映画はそういうステレオタイプな懐古にはならない。しかも、吉田修一らしいと言えるかもしれないのは、‘いたかも知れない’ではなくて、これはまぎれもなく‘現実にあった’ある事件とシンクロさせているところ。
 その現実が苦いとしたら、まぎれもない事実について‘そんな人がいるのか’と感じることと、まぎれもない虚構について‘そんな人がいたかも知れない’と感じることの間に横たわっている、川幅の遠さ、川の深さ、闇の暗さにある、その苦さは。
 映画の中で、カメラマンを演じている井浦新は、役者のかたわら、現実にもカメラマンをしていて、いま、箱根彫刻の森美術館で写真展を開催中。
 映画のあの写真がせめてモノクロームであったら、はっきりファンタジーと割り切ってしまうのだけれど。あるいは、もう少し色あせていれば。あの写真にももうすこしこの映画の魔法を分けてもよかったのではないか。ただ、だからこそ考え込んでしまうのだけれど、いたかも知れないと。