思いつく権利

 この夏、節電対策のために勤務時間が変わったので、ひさしぶりに昼間のテレビを見たが、あまりのつまらなさに驚いた。「電力消費のピーク時に放送を止めればいい」と発言して、ほされたタレントがいるが、むしろ正論だったと思う。国中が節電しているときに、こんなくだらない放送を垂れ流しているのはバカバカしすぎる。 10:00〜17:00の番組はごっそりなくしてもいいと思う。昼間、テレビが砂の嵐になっていれば、外出しようと思う人もいるだろうし、消費活動を刺激するかもしれない。
 今朝の新聞によると、菅直人が、エネルギー基本計画の見直しを経産省資源エネルギー庁から、国家戦略室に移そうとして、「また思いつき」だと批判されている。
 しかし、今回の原発事故が明るみに出したように、資源エネルギー庁原発マネーに群がる寄生省庁にすぎないのだから、そんなところに計画の見直しなんてできるはずもない。国家戦略室に実権を移すのは、‘いい思いつき’だと、一般人としてはそう思うのだけれど、何がいけないのだろうか?
 ‘思いつき’ということで批判されることの多い菅直人だが、‘思いつき’の何がいけないのか?
 少なくとも世間一般では、思いつかないより、思いついた方がいいのだし、どんな思いつきも突発的に決まっている。
 ‘思いつき’だからいけないというマスコミの論理に騙されてはいけないだろう。
 ‘思いつき’=悪という論理の裏側にあるのは‘思いつく権利は、官僚とその広報機関であるマスコミにしかない’という思想である。
 ‘思いつく権利’をむずかしい言葉で‘議題設定権’というそうだ。
 ダイヤモンド・オン・ラインの
http://diamond.jp/articles/-/13204
上久保誠人のコラムにあるので、参照していただきたい。
 「国民も政治家も何も思いつくな。思いつくのはわれわれ官僚だけだ」というのが、端的にいって官僚支配のもっとも根本的な構造である。
 報道の論調どおり、総理大臣が何かを思いついちゃいけないということになると、そもそもどうやって政治を動かしていけばいいのか。
 しかし、こんなことが恥ずかしげもなく、平気で新聞記事になるような、お寒い国だということは事実なのだろう。
 こうした官僚支配は、バブルが崩壊したときに、とっくに破綻している。国がぐたぐたになっているのに、いまだに自分たちが国を支配していると思っていることが低能の証明である。天下りだけが楽しみの連中のくせに笑わせる。ちなみに、新幹線の特許を中国に奪われた件に関して、経産省に責任がないといえるだろうか。
 小泉純一郎にくらべて、とても試合巧者とはいかないが、いま官僚と戦っているのが菅直人だけなのだから応援せざるえない。
 菅直人にリーダーシップが足りないということは、私も書いてきたし、世間でもいわれていることだが、しかし、今の状況は、リーダーシップよりもフォロワーズシップの問題が大きいだろうと思えてきている。
 復旧、復興に関しては、そんなに独創性が必要とされるわけではないので、実際には現場の頑張りと機転にかかっている部分が大きいと思う。
 朝まで生テレビでちらっと聞いたのだけれど、被災者の再就職支援ということで、中央から派遣された官僚が、官費を使って、被災者相手に、面接のマナー教室みたいなことを開いていたそうで、その場の全員が一瞬言葉を失っていた。
 今の官僚たちはどんな人間だろう。親のいいなりになんとなくエリートコースをすすんで、バブル時代に官僚になって、親方日の丸で公費で遊んで、晩年は天下りでおいしい思いをしようと思っていたのに、「大震災なんて起こりやがってよ、何で俺たちが被災者の支援なんかしなくちゃならないんだよ。ちぇっ!」というのが彼らのホンネだろう。いいすぎだろうか?私はそうは思わない。
 ところで、侍(さむらい)という言葉の語源は、‘さぶらう’、貴人のそばで仕えるという意味の動詞の連用形‘さぶらい’が名詞化したものだろう。
 侍の道が武士道なのだとすると、武士道は、究極のフォロワーズシップを志向したものといえるだろう。その意味では、日本人は自分の理想を、究極のフォロワーズシップに託していたと言える。
 無名の一兵卒として、黙して死地に赴く日本人はいなくなったかもしれない。しかし、よくもわるくも、今でも日本人の心を動かすのは、そうした無名の一兵卒だろうと思う。