7月になってシフトが変わり、平日に更新できるようになった一方で、どういうわけか土日に書けなくなってしまった。
というわけで、7月にいった美術展と映画のことをまとめて書く。
10日 目黒美術館
「ラファエロ前派からウィリアム・モリスへ」
17日 太田記念美術館
「歌川国芳展 後期」
同日 根津美術館
「古筆切」
同日 損保ジャパンミュージアム
「グローバル・ニュー・アート」
30日 ワタリウム美術館
「驚くべき学びの世界 レッジョ・エミリアの幼児教育」
同日 渋谷 シアター・イメージフォーラム
映画「エッセンシャル・キリング」
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「ラファエロ前派からウィリアム・モリスへ」
ラファエロ前派を見るとき、いつも不思議に思うのは、ジョン・エヴァレット・ミレイや、エドワード・コリー・バーン・ジョーンズは大好きだけれど、素人目ながら、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの絵は、この運動の中心人物であるにもかかわらず、その中でもっともへたくそに見える。デッサンが狂ってるんじゃないかと思ったり、影の付け方がまちがってないかとか。
今回のポスターにもなっている<マリゴールド>に、毛糸の玉にじゃれつく黒猫が描かれているのだけれど、前景にいる女性の目より、後ろの猫の目の方が大きいのは、あれはあれでいいの?
そういうツッコミを入れながら見るのが楽しいっていう、私のロセッティの見方はそんな感じ。
ラファエロ前派とウィリアム・モリスは、以前関西でも同じような展覧会があったので、あれと同じかと危ぶんでいたけれど、全然違って、今回はバーン・ジョーンズをはじめ、絵の出品数が多く、堪能できた。関西で見た展覧会は、どちらかというとウイリアム・モリス中心で、モリス商会の、今回も原画があったが、バーン・ジョーンズデザインのステンドグラスが再現されていたりしたものだった。
アーサー・ヒューズの<彼は蘇る:最初の復活祭>という絵がきれいだった。
藤田嗣治展も同時開催されており、去年の絵手紙の図録があったので購入した。
「歌川国芳展 後期」
前期は武者絵中心だったが、後期は国芳の独壇場、洒落とわらいの世界。
もうずいぶん見たかと思うのに、まだまだ見たことのない絵がいっぱいあるのに驚いてしまう。
<墨戦の図>という、大勢の人が大きい筆や墨汁を手にして大乱闘している絵があったが、墨の乱舞は、一瞬、ジャクソン・ポロックを連想させたし、いったん群衆図として閉じた世界の上にもう一度、画家の筆が介入してくるという点で、ポロックより断然スリリングだと思った。
狸のきんたまを描いたシリーズもホントに楽しかったのだけれど、ただ、でかいでかいのオンパレードでなくて、小金玉の狸の見世物小屋があったりして、そういう破調をいれてくるあたりが、笑いのセンスばつぐんだよなぁと感心したわけだった。
西洋絵画の影響という視点から、まとめて展示されているコーナーもあった。
国芳の頃はもう幕末だから、西洋版画もけっこう手にできたのかも知れない。構図がそっくり丸写しのような絵もある。
興味深く思ったのは、たてた人差し指がこちらを指しているように見える絵で、国芳はこの指の描き方を気に入ったのか、おもしろがったのか、何度か繰り返している。今でいえば3D表現なわけだ。
国芳の絵を見ていると、この人に描けないものはないんじゃないかと思えるほど自由自在だ。この自由自在さに比べて、西洋絵画がこだわる立体的に見えることは、どれほど意味があるのかなとちょっと考えさせられた。
「古筆切」
根津美術館は、あのあたりに行ったとき立ち寄ることにしている。
「古筆切」とは、古書の一部を裁断して観賞用にしたもので、パピエコレの元祖みたいなことだが、古新聞とかじゃなく、古今和歌集とか写経とかを平気で裁断してるんだからすごい。
ただ、豪華な料紙に能筆が書いたこれらの書は、最初から調度品でもあった。茶の湯の掛け軸としては、確かにこういうものの方が絵よりもかえって似つかわしいだろうという気がする。
書き漏らしたのに気がついた。3日、日比谷で「BIUTIFUL」を見たついでに出光美術館で「明清陶磁の名品」というのを見た。展覧会のサイトによると
本展に登場する作品は、いわゆる鑑賞陶器(かんしょうとうき)にあたります。日本の近代の中国陶磁鑑賞や研究が、茶道や文人趣味の審美眼から行われていたのに対して、純粋な鑑賞を目的とすることが提唱され、それを鑑賞陶器と呼ぶようになりました。
とある。
それでなるほどなと思ったのは、わたしが焼き物を理解できるようになったのは、上野で楽茶碗の名品を見てからのことなので、自分の陶器を見る目はまだ道具から離れてはいないようだ。鍋島とかの豪華な意匠にはあまり心が動かない。
(追記
紙ばさみの中から目録が出てきた。それをたよりに記憶をたどると、<五彩十二ヶ月花卉文杯 十二客>という、五言絶句だったか律詩だったかさだかではないが、漢詩が青いかっちりとした字で書かれいる杯にいちばんこころ惹かれた。
つまり、手のひらにおさまる感じとか、持ち心地みたいなことをやはり考えてしまうということ)
「グローバル・ニューアート」
加藤泉、奈良美智、加藤美佳、照屋勇賢など、新しいアーティストたちの作品。
一番印象に残っているのは、ヴィック・ムーニーズという人が、アフリカの人たちと共同で、ゴミを素材に大きな絵を作ったプロジェクト。作品に関わった人たちは、そこから得た収入で貧困から抜け出した。
そういうふうにアートが社会と関わっていくあり方から、これからの作家たちはとらえ直していかなくてはならないし、また、とらえ直していけるとも言える。
「驚くべき学びの世界 レッジョ・エミリアの幼児教育」
ワタリウム美術館の企画は面白い。今回は、イタリアの幼児教育。
先ほどの「古筆切」とのつながりでいえば、イタリアの3歳児が書いた‘A’の字が、藤原俊成の書と同じレベルで鑑賞に堪えるのだから面白い。あそこに展示されていた、子どもたちの覚えたての字は、表装すれば、茶の湯の掛け軸に使える。
実際の教育の様子が、字幕付きのビデオで流されていた。
先生とふたりのこどもがいる。ひとりの子がなにかをぐちゃぐちゃ書いている。
先生「なんて書いたの」
こども「・・・・・(おそらくその子の名前)って書いたんだ。」
先生「読んでみて」
こども「読めるわけないよ、ただの線だもの」
先生「(もう1人の子どもに)あなたは読める?」
もうひとりのこどもがうなづく。
先生「じゃあ、読んでみて」
もうひとりのこども「1、2、3、4、・・・・」
先生「数を読んでるのね」
子どもたちの哲学的対話は驚きに満ちている。
音をかたちにするということでできあがった作品が展示されていたが、これはほんとうにパウル・クレーの絵を造形作品にしたようだった。
「エッセンシャル・キリング」
話題の映画だったが、死を扱った映画としては「BIUTIFUL」の方が数段上。
見ながら、松本人志の「しんぼる」を思い出していた。「しんぼる」の松本人志のパートを無言にすると、こんな感じになったんじゃないかと思う。
政治的な背景がよくわからないのだけれど、どうしてノルウェーとポーランドでロケだったんだろう。