天罰としての消費税

knockeye2012-01-25

 石原慎太郎が、「消費税は一気に10%にあげるべき」と発言していると聞いて、19日にふざけて書いた‘善良な人の意見(推測)’という短い戯れ言を思いだし苦笑い。
 あれは、100%の戯れ言、戯れ言の中の戯れ言。こんなこと考えているやつぁいないよねぇ(笑)という、そういう軽口のたぐい。
 しかし、思い直してみると、東日本大震災を‘天罰’とする石原慎太郎の発想が消費税に向かうと、‘どんどん増税すべし’という考えになるのは、分かりやすすぎる。
 「贅沢は敵だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」とか、結局、そういう精神性がこの人のベースなんじゃないか。
 財政再建=消費税増税という発想が、短絡的であるだけでなく、陳腐であることを思うと、政治家として‘提言する力’が、石原慎太郎から枯れつつあることを思わせる。

 この大前研一の一文は、非常に重要かと思う。
 いつもなら、勝手にコピペして、牽強付会、我田引水するところなのだけれど、遺憾ながら、これに関しては全文読んでもらうしかない。
 昨年末、「三菱東京UFJ銀行のバランスシート上に抱える日本国債保有残高が、企業や個人への貸出残高を初めて上回った」そうだ。
 銀行が、経済の心臓として、血液としてのお金を産業界に環流しなくなっている。
 資金を提供した産業が利益を生むからこそ銀行に利益が発生する。産業界に資金を提供しなければ、銀行という業態自体が成立しないはずだ。
 私たちは、働いて得た金のなかから税金を払う。給料の残りは銀行に振り込まれる人が多いのではないか。
 ところが、銀行は、その金で国債を買い、その国債が国の財政を圧迫して、税金が上がる。ということになると、この取り引きの途中で発生する金利は、いったい、誰が誰に払っていることになるのか。
 事実上、国債金利が銀行の主たる利益だとなると、私たちの税金はいったい何に使われているのか。
 そして、この日本の状況に世界が追随し始めている。
 大前研一

こうした状況を生んだ背景を考えると、どこの国を見ても「国民」に問題があると私は考えています。国民が政府に要求をぶつけすぎているのです。

と書いている。
 この「」つきの「国民」は、私に言わせれば、田中角栄型の政治が分配の対象としてきた、受益者たちのことだ。
 高度成長が生み出す利益を再分配するとき、田中角栄が選んだ手段は、中央の権限で地方に仕事を作り出す、いわゆる‘土建屋政治’だった。
 そのやり方でたしかに道路や鉄道などインフラ面での地域格差は解消できたといえる。しかし、その政策の目的が格差是正にあったとしても、それが田中角栄自身の権力を肥大化させたことは、格差是正の成果より、はるかに確かだった。
 そして、中央省庁の既得権益を既成事実化してしまったことも。
 遅くともインフラが行き渡った80年代以降、その弊害がむしろ目立ち始めるのはむしろ当然だ。
 明らかに要らないダム、要らない道路、要らないかんぽの宿、要らないグリーンピアにカネが注ぎ込まれ、新しい産業に資金がまわらない。だけでなく、むしろ、その芽が摘まれてきた。
 いま、道州制が注目を浴びているのは、こうした中央集権の弊害を、なんとか突破したい国民全体の期待からなのだろう。
 国民が政権交代民主党に求めた「脱官僚」の本来の意味は、こうしたことだったはずだ。もし、民主党橋下徹に打ち負かされるとすれば、その原因は彼ら自身の変節にある。彼らは、いまや彼らが打ち破ったものそのものであることに気づくべきである。