「アニマル・キングダム」を観た日比谷シャンテで「灼熱の魂」。
シャンテはたぶんTOHOのお膝元だと思うのだけれど(それとも違うのかな?むかし、みうらじゅんが盗んだゴジラが立っているけど)、ほかにも「ウインターズ・ボーン」、「BIUTIFUL」とか、いい映画はシャンテで単館上映して、地方にまわさないのは何故なんだろう。こんなことでは映画格差が広がって、健全な中間観客層が育たないと思うが。
それはそうと、ネタバレ書くんだった。
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「灼熱の魂」の元ネタは舞台だそうだ。
なので、実のところ、政治的、宗教的なテーマはない。事実、国名さえ明らかにされない。もっとも、原作者はレバノンの人だそうだ。
それで、全く架空の物語としてこの映画を観ると、ちょっと予定調和的であるように感じた。
ナワル・マルワンの手紙はまるで、デウス・エクス・マキナのよう。ああいう形で悲劇を回避し、カタルシスを避けなくてもよかったのではないか。
現代のエディプスもまた、自ら両目を潰して、砂漠にさまよい出るべきではなかったかと思う。
(ここからは、翌日に書き足した分。ネタバレ対策したわりには、奥歯にもののはさまったような書き方をしてしまったので。
だって、ナワル・マルワンとアブ・タレクは、カナダのプールサイドで再会するんだよね。
戦場で行方を見失った息子に、そんな平和な場所で再会、しかも、相手は、囚人だったころの自分には気がつかなかった、となれば、どういうのが自然な振る舞いだろうか?
ストーリーのために発端が不自然になっている。
思うに、
ナワルは何も知らずに死に、双子に兄を捜してほしいと遺言する
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双子は、兄を捜す過程で自分たちの出生の秘密を知る、そして、兄を捜し出すが、その兄が自分たちの父だとは気がつかない
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アブ・タレクは、双子たちに再会して、歌う女が彼の母だと知り、双子たちが彼の子らだと知る。こうして、アブ・タレクだけがすべてを知るのが自然な気がするけど、どんなものなのだろうか?)