歴史の天使

knockeye2012-08-07

 日曜日の続き。
 夏らしい日だったのでちょっとまよったけれど、根津美術館からワタリウム美術館まで歩いた。わりかし日陰になっていたので助かった。
 ワタリウム美術館は、キュレーターの目線が高いというか、熱いというか、反骨というか、ロックというか、ビートというか、おそらく全部違ってるんだろうけれど、いずれにせよ、ワタリウム美術館で写真展をやるってなるとこうなるんだなと改めて感じ入った。
 ワタリウム美術館もけっこうよく来るけれど、写真展は初めてだと思う。
 通りに面したはめ殺しの窓に多木浩二の文章が書かれていた。私は、撮影不可の美術館では写真を撮ったことはないのだけれど、この文章とここから見える今日のこの風景は写真に撮りたいという誘惑に駆られた。結局、撮らなかったけど、帰りに表から撮った。文字が反転するけどこんな感じ。

 読めた?
 「歴史の天使」。まさにそのとおり。
 わたくし、キリスト教という宗教にはあまり感心しないのだけれど、考えてみれば、キリスト教にとって、この‘天使’というへんてこりんな存在が、実はもっとも本質的かもしれない。他の宗教にはいないもん、そんな変なの。キリスト教には天使がうようよいるだけで、神はいないのかもしれない。その可能性あるな。
 すくなくとも、神を追っかけるより、天使を追っかける方が面白そうじゃないの。つかまえ甲斐がありそうじゃない?
 しかし、天使ではなく‘歴史の天使’の話だった。
 写真の登場が、絵を写実から解放した時、わたしたちは、わたしたちのイメージの世界のグロテスクさに慄然とした。
 それにおののいて振り向いた時には、写真もまた写実のしもべであることをとっくに辞めていて、絵よりもはるかにたちの悪い嘘つきになっていた。そこにはたしかに‘歴史の天使’の仕業を見ることもできるだろう。
 この死んだ人たちの写真が私につながっている。とても不思議。