楽美術館ほか京都の美術館

knockeye2012-08-16

 五山の送り火の日を避けて、ということは昨日、京都にでかけた。
 父は「焼き物なんて観てもしょうがない」というが、実のところ、クルマで行きにくいところには行きたくないのがホンネなんだろう。
 ふだんなら新快速で京都駅におりるはずだが、前日の大雨で新快速は大阪どまり。大阪から阪急に乗り換えた。大阪駅もきれいになったが、北口から阪急電車にむかうあのあたりは、昔と変わっていなくて、通り過ぎざまノスタルジーがすれ違う。
 ひさしぶりの阪急京都線の特急は、いつのまにか停車駅が増えていて、急行に乗りまちがえたかと表示を確かめたほど。それで、二十年以上乗っていないことに気がついた。
 昔は当然だと思っていたが、今考えてみると阪急電車の路線はユニークで、神戸線宝塚線京都線がいったん十三駅に集結した後、三線並んで二駅先の梅田駅(JR大阪)に向かう。神戸から京都、京都から宝塚、といった直通路線はない。もし、三宮から河原町にいくとすれば十三で乗り換える。この路線を敷設した時、小林一三が描いたグランドデザインを、いまさらひしひしと感じたのは、ながく関西の外に出ていたからだろう。阪急沿線のライフスタイルは小林一三が蒔いた種に組み込まれていた。
 楽美術館は、一条戻り橋を東に入って、油小路をすこし下がったところ。このあたりは土地勘があるというにはなつかしすぎる。一条戻り橋のかかっている堀川なんて、今は木々が茂っているが、昔はああじゃなかった。コンクリートで固めたただの排水路だった。きっと誰かが、ここに木を植えようと思い立ったのだろう。人の思いは案外捨てたものではない。
 楽家十五代、450年にわたる営みは伝統の重みがあるとも言えるし、かわりばえがしないとも言えるのだが、そのなかで十四代覚入の作<色絵流水文赤楽平茶碗 銘 綵衣>には昭和のモダニズムが反映している。

 重森三玲の庭などと思い合わせても、このころ生まれつつあった昭和の日本を戦争が踏みにじったのは、とてつもなくバカげたことだった。しかし、当時の人々のなかに、こうした日々の営みよりも戦争の方に‘大義’があると思った人がいて、国を亡ぼした。

 知らぬ間に京都にも美術館が増えた。堀川通りをすこし上がったあたりに茶道資料館というのがあるのを知ったので、ついでに寄り道をした。
 「会釈」と銘がつけられた徳利がちょっとお辞儀している感じに首をかしげていた。