『ヨオロッパの世紀末』

knockeye2012-09-05

ヨオロッパの世紀末 (1970年)

ヨオロッパの世紀末 (1970年)

 吉田健一の、おそらくは主著といっていいのだと思う『ヨオロッパの世紀末』を読み終えて、この出版が1970年であることにいまさらのように驚いている。
 私程度の凡人には、今になってようやくなるほどと納得してこれが読める。それは、日本が経済大国になり、バブルが崩壊し、韓国や中国が経済成長し、戦時中の日本のようにナショナリズムが暴走し始めるという今になって、ようやくヨーロッパと日本を相対的に見られるということなんだろう。
 18世紀から19世紀末にわたる、ヨーロッパの誕生、膨張、迷走、再生を、的確な傍証をあげながら、説得力のある解釈を展開できるのは、吉田健一の教養があればこそだと思う。

・・・我々がおそらくは十九世紀のヨオロッパの今日でも続いている影響で神はどこにでもあると考え、キリスト教徒の口まねをして気にもかけないのが可笑しいならばそれを通り越してその結果は弊害を伴ってその程度のものがヨオロッパでは信じられているのだと思い、それならば神の不在ではなくてその神があることが我々をヨオロッパには手が届かなくしている。・・・

そして、これをもっと手っ取り早く言えば

・・・ヨオロッパのキリスト教の神はヨオロッパ人なのであって・・・

と書いている。
 これは誤解曲解しようとすれば際限なくそうできる一文なのかもしれないが、そして、そういう誤解こそが明治以降の日本だったのかもしれないが、この評論全体を読み通してみて、これをこれ以外にどう書けるかと考えると、こう書くのがもっとも正確だと思える。
 これは、もちろん、ヨーロッパ全体を論じているこの評論のホンの一部分なのだが、このブログで以前取り上げた国木田独歩正宗白鳥が、キリスト教とどのように葛藤したかを思い出せば、明治維新から100年以上経って、日本人がようやくここに辿りついたという感慨がある。この間に日本人が払った犠牲はただならぬものがあったし、そのうえ、他のアジアの地域まで巻き込むことになったわけだが、しかし、最近中国や韓国で横行するらしいナショナリズムの兆候を見ていると、19世紀末の日本があのような暴走に駆り立てられたのも、逃れがたかったのかもしれないと、内心では思わずにいられない。
 しかし、そういったナショナリズムの暴走の悲惨を私たち日本人は身にしみて経験したわけだし、それに、韓国や中国が日本に対して「反省」や「謝罪」を要求しているのは、まさにそういったナショナリズムの暴走そのものであるわけだから、「反省」「謝罪」を求めている当の主体が、今の日本人よりむしろ国粋主義に偏重し、戦時中の日本人そのものであるかのようなのは、これは皮肉とか悪い冗談とかいってられない。
 ‘愛国無罪’とか‘反日無罪’とかが許されるなら、戦時中の日本が、韓国や中国、あるいは、ロシアや米国に対してとった差別的な態度も許されなければならない。私に言わせれば、‘愛国無罪’どころではない、愛国こそが諸悪の根源である。
 先週の日本版ニューズウィークの表紙に、「独島は韓国の領土」と掲げた韓国のサッカー選手の写真が載っていた。これ以上ない晴れやかな笑顔。わが国が戦時中掲げた、忠国とか、烈士とか、大和魂とか、そういうプロパガンダに添えられた写真とそっくりだと思った。その意味では、森本防衛大臣の「韓国の内政問題」発言はけっこう正しかったかもしれない。日韓の外交問題と捉えるよりも、韓国内でナショナリズムが暴走し始めているという点に注目して、このことが悪い方向に向かないように、何らかの対処を講じておくべきかもしれない。日本海の国際表記を東海にしろなんて子供じみている。
 李明博は退任後逮捕されるのかもしれないが、そうなると、韓国の実質的な支配者はだれなのかということも考え直してみるべきかもしれない。軍政から民政へ、ソフトランディングしたように見えた韓国だが、国際社会は、韓国の民主主義をほんとうに信じていいのかと再考してみなければならないのかもしれない。