『リヴァイアサン』、『一週間』

knockeye2012-10-27

リヴァイアサン (新潮文庫)

リヴァイアサン (新潮文庫)

 この週末はいくつかの映画と展覧会を観にいくつもりにしていたが、結局、ずっと本を読んでいた。土曜日がこうなりがちなのは、面白い‘かもしれない’映画は、現在進行形の面白い本に負けるから。
 ポール・オースターは、小説家という生業を疑っているというか、そうでなければ、オースターにとっての小説家は、私たち一般の読者がこんなもんだろうとぼんやり考えているものとは、ちょっと違うのだろう。
 それは、作品のはしばしにのぞく、ソローやホーソーンといったアメリカ文学の伝統を自らの内に、強く意識している態度からそう思うわけ。
 『ティンブクトゥ』が『ドン・キホーテ』の変奏曲だったとしたら、今度の『リヴァイアサン』はH.D.ソローの『ウォールデン 森の生活』をその源流に持っていると思う。それにもちろん、ホッブズの『リヴァイアサン』、主人公サックスの誕生日の逸話は、おそらく「恐怖とともにに生まれた」というトマス・ホッブズの逸話を下書きにしている。
 後知恵で片付けるフローチャートような歴史と違い、現実の社会は、たとえば結婚相手や、友人や、仕事仲間や、ときには不倫相手や、体調や、お天気や、季節や、年齢などなどで、もっと複雑系で構成されている。テロの隠れた動機のひとつがじつは、ちょっとひいちゃうほど些細なことであったとしても別に驚くことはない。憶えているだろうか。テロリスト某が、元厚生次官某を殺害した動機は、子どものころ愛犬を保健所に殺されたからだったなんていうのはまだしもわかりやすい。
 主人公ベンジャミン・サックスの人物像をかたるエピソードにこういうのがある。

・・・たとえば、一八九〇年代にクロポトキンがはじめてアメリカを訪れた際の逸話。この有名な無政府主義者の公爵に、南北戦争の南部合衆国側の大統領ジェファソン・デイヴィスの未亡人が会見を申し込んだというのだ。これだけでも十分に奇怪な話だが、サックスによれば、クロポトキンがデイヴィス夫人の屋敷に着いてまもなく、誰あろう、有名な黒人指導者ブッカー・T・ワシントンがひょっこり現れた。ワシントンの用件は、クロポトキンに同行してきた男というのが彼の友人で、この人物に会いにきたのだという。ワシントンが玄関広間に立っていることを知ったデイヴィス夫人は、彼のもとに人を送って、こちらにいらして仲間にお入りくださいと伝えた。こうして、その後の一時間、何とも奇妙な組合わせの三人組が、一緒にお茶を飲みながら上品な会話を交わすことになった。組織化されたあらゆる政府を打倒せんとしているロシア貴族、文筆家にして教育家となった元奴隷、奴隷制を護ろうとして建国以来もっとも血にまみれた戦争へアメリカを導いた男の妻。こんな話を知っているのはサックスくらいなものである。

 ウソのようなほんとの話、ホントのようなウソの話。だが、ウソだとかホントだとかの判断は、歴史の単純な図式にあてはめやすいかどうかにすぎなくて、現実の世界に無秩序にぎっしり詰め込まれている事実は、だれかに都合のよい物語を簡単に裏切ってしまう。それでもそこに物語があるように思うとしたら、それは人が見たいもの以外は見ないからにすぎない。
 小説は、すくなくとも19世紀から20世紀の前半くらいまでは、そうした歴史と寄り添って、歴史が見たい物語と口裏を合わせてきたといえる。
 歴史って、言い換えればキリスト教的な世界観で、つまり、はじめに言葉があって、そのつぎに神様がなんか作って、途中にいろいろあって、最後に出来のいいのを刈り取っておしまいという、神様の予定表をなぞったものにすぎない。そもそも、とある宗教団体の教義では、前世紀で世界が終わるはずだったのである。ハルマゲドンとかなんとか。ところが、もうそれすぎちゃったわけだから、小説が、そろそろ歴史との関係を清算したくなったとしても責められないのではないか。
 終わるはずだった世界が終わらず、むしろ歴史が終わってしまった世界を物語はどう生きるか。すくなくとも、そういう今を生きる物語でなければ、退屈に感じてしまうのは、いまのわたしたちの実感だろう。
 以下は、以前にも紹介したマグリットユルスナールの覚え書き。

 わたしが一九二七年ごろ、大いに棒線をひきつつ愛読したフロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句___「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった」。わたしの生涯のかなりな期間は、このひとり人間のみ___しかもすべてとつながりをもつ人間___を定義し、ついで描こうと試みることに費やされた。

一週間

一週間

 井上ひさしの絶筆を今頃読んだ。残酷で面白くてグロテスクな話。最後をああいう幕切れにできる残酷さはすごいと思う。たぶん、ずっと舞台に関わってきたからだろうと思った。生身の役者を念頭に置いてないとあの幕切れはちょっと書ききれないんじゃないか。
 もちろん、作者のつもりとしては、このあと加筆修正する予定だったらしいから、最終稿がどのようなかたちになっていたかはわからないけれど。根源的な残酷さは、上のポール・オースターに勝るとも劣らない。
 それと、両方ともいい女が出てくる。小説に出て来るいい女って、容姿とかことこまかな描写がなくても、‘これすっげぇいい女なんだわ’とか、‘こいつちょっといい女なんだな’とか、‘こいつやな感じ’とか、絵とか写真よりわかっちゃうのが不思議。バカなこと書いてるのかな。プロの技術としては当然なのかもしれない。