「ゼロ・ダーク・サーティ」

ゼロ・ダーク・サーティ

 「ハート・ロッカー」のキャスリン・ビグロー監督最新作「ゼロ・ダーク・サーティ」。
 2時間38分という長さを緊張の糸を途切れさせることなくみごとに歩き通してみせる、タイトでストイックな演出には、「ハート・ロッカー」のときに魅了されたみごとさで、これはこの監督の天才なんだろうと思う。映画が終わった途端、館内の気温が一気に上がったように感じた。それまで息を詰めていた観客が一斉に息を吐いたからではないかと思った。
 「ハート・ロッカー」の時もそうだったが、この監督の映画はウソがない。観客に対してフェアなのだ。一部では、CIAのプロパガンダだとかいう、いかにもありがちな批判があるようだが、そもそも9.11のテロの首謀者が、ウサマ・ビン・ラディンだということでさえ、公正な手続きを経たことだったか、あるいは、それに引き続いて推し進められた対イラク戦争の根拠にウソはなかったのか、そういった、現実の政治的なストーリーは唯々諾々と受け入れておきながら、それをもとにフィクションとして作られた映画には、批判の声を上げるといった、良識ぶったエセインテリがわたしは嫌い。
 もう一度言うけれど、「ゼロ・ダーク・サーティ」におけるキャスリン・ビグローの態度はフェアだ。フェアだからこそ、2時間38分もの映画がだれない。そしていうまでもなくフェアなプロパガンダというのは、言葉の矛盾である。それにそもそも内容はCIAの礼賛でもなんでもないし。
 「こんな映画はCIAのプロパガンダだから観もしない」なんていう態度はほんとに幼稚だと思う。だから、たしかにそういう人は見ない方がいいのかも知れない。たとえば、パンフレットで町山智浩が、CIA局員ダンを演じたジェイソン・クラークにインタビューしているのだけれど、

      • 飼っている猿にアイスクリームを盗られるシーンはハプニングですか?

 あれはちゃんとシナリオに書いてあってね、わざと猿にアイスクリームを盗らせたんだ。実際にCIAは猿を飼っていたそうだよ。

 つまり、こんなぐあいに、‘これはどこまで事実なんだろう?’という興味は、すみずみのディテールに行き渡っている。一観客としてはそれについては知りようがないが、それについて想像をたくましくするということが、映画を観る楽しみだろう。
 ウサマ・ビン・ラディンの隠れ家らしい家に、シールズが乗り込む0:30(ゼロ・ダーク・サーティ)から夜明けまでは、まさにその連続。シールズが乗り込むヘリにしてからが、
「諸君はいまから‘公式には存在していない’ステルスヘリで・・・」
といった調子。映画の歩調に乱れがないので、どんどんとやり過ごしてしまうが、これがドキュメンタリーであれば「え?」というところ。そういう、見終わった後にいくらでも議論できそうな、謎のある(あるいは味のある)シーンが、暗視ゴーグルのグリーンの画面の中で薄暗い幻灯のように繰り広げられる。
 このとき、ウサマ・ビン・ラディンは本当に殺されたのか?。そんなことを、この映画で知ろうなどというのは、横着にもほどがある。そもそも、9.11のテロとウサマ・ビン・ラディンは本当に関わりがあったのか、それさえも私たち一般人にははぐらかされたままだというのに、はじめからフィクションだとことわっている映画を批判しようという気になれるのはなぜか。むしろ、そうした善悪や正邪が既成事実の後を追いかけていく、今という時代に特徴的な‘真実’のありかたをこれほど的確に描き出した映画はないと言えると思う。
 その意味では、ここには真実が描かれている、ウサマ・ビン・ラディンのではなく、私たちの真実。