引っ越しました

knockeye2013-04-28

 今日、引っ越しをした。
 市内の引っ越し、それも歩いて10分ほどの賃貸マンション。今まで住んでいたところは職場の移転にあわせてあわただしく決めたせいもあり、思ったより収納が少なく、ちょっと片付かない思いはしていたのだけれど、まあそれは、てめえが片付けないせいでもあるし、部屋に帰れば寝るだけという暮らし、不満とあきらめのバランスはけっこう取れていたのだが、隣に子連れの若夫婦が越してきてから、ちょっとこのバラランスが崩れた。子供がうるさいし、そろそろ引っ越してもいいかという気分になった。
 そのさいに迷ったのは、ちょっと計算してみると、安い物件なら買った方が安いんじゃないかということだった。結局、今度も借りることにしたのだけれど、考えてみると、ここに住み続ける意思もなく、持ち家志向もないわたしみたいのが、一瞬でも家を買おうかと思ってしまったのは、やっぱなんか世の中しくみがおかしい気がした。
 いつからこうみんなが家を持ちたがるようになったのか?吉田健一が書いていたけれど、戦前は、借家住まいがふつうだったそうだ。吉田健一自身は吉田茂の息子だから、どうだったのか知らないが、特に都会では、家を持つのはよほどの金持ちだったと書いていた。
 さいきん、この近所でも、ぼこぼこ家が建っている。『狭小住宅』という本が話題になっているけれど、‘え?ここに六軒建てる?’みたいな。
 たしかに、今の世の中の仕組みでは、それでも、家を持つ方が持たないよりいいんだろうけれど、でも、暮らしの質ということを考えると、わたしはそこに桜の木があった原っぱを残していて欲しかったなと思う。つまり、みんなが家を持つことで、家がまったくのプライベートな空間になってしまっている。もちろん、それはそうに違いないのだけれど、それでもやはり家は町の一部でもあり、快適な家に住むよりも、快適な町に暮らすほうが楽しいんじゃないかと思うのだけれど、今みたいな家の建て方をしていると、町の面積の99%までがプライベートで、パブリックと言えるのは道路だけになってしまいそうだ。
 もうすこし、パブリックな森とか、パブリックな川とか、パブリックな公園とか、そういう場所が増えた方が暮らしの質は上がるんじゃないだろうか。
 ‘そんなこと言ってたら庶民は家も買えない’かもしれないが、買えなくても、そういうパブリックな部分の多い町の方が結局暮らしやすいように思う。
 わたしがここで書いていることはきわめて保守的なことだ。安倍昭恵首相夫人のインタビューが日経にのっていて、そのなかで、
「(中国電力の上関原発建設計画に反対する山口県上関町の)祝島を見に行ったりしました。」
とあった。福島菊次郎の映画に出て来たあの島だと思い出した。すこし、問題視する人もいたそうだが、
 「ただ、何を言われてもそういうことからしか物事は変わらないと思うので、たとえ悪者になったとしても、問題提起していきたい。確信犯的な面もあります。島の美しい景色・環境を守りたい。原発のための助成金をもらわず農業・漁業をしている姿も立派だと思うし『それこそが保守だし、美しい日本じゃないですか』と主人に言いました」。
 以下はそのときのご本人のブログ。

 パブリックという意識を杓子定規にいうことはむずかしい。たとえていえば、よくあうだけのおっさんとあいさつをするとき、どの程度の間合いを取るかみたいなことだと思う。肩をたたいて、手を握りあって、涙をこぼしてたらウソに決まってるけれど、まったくしらんぷりもなんかちがうと思うなら、そこにはパブリックというものがあるということではないか。でもないか。