遙洋子

knockeye2013-05-02

 遙洋子が小気味よい啖呵を切って耳目を集めている様子。はてなブックマークが270とか。

 それで、ふと、橋下徹という人が大阪府知事になったころ、わたしたち一般人が期待したのは、こういうことだったんじゃなかったかなと思ったりした。
 一般人の生活感覚で政治をしてくれるんじゃないかなと期待したし、現に、はじめのうちはそういうやり方だったように思う。いま、維新の会の支持率ががた落ちらしいけれど、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」などという国士気取りに、中身がないのがばれ始めていると思う。憲法を改正するならするで、どう変えていくのかということの方を、強調するべきだと思うし、ほんとうに国の未来を考えている政治家ならもっと慎重に言葉を選ぶと思う。
 わたしが最近感ずるのは、よくもわるくも、わたしたちの国はアジアの先進国で、韓国や中国よりすこしだけ‘先を歩いている’という言い方はもちろん比喩にすぎないが、19世紀に開国して以来、近代国家として積み重ねてきた経験は、韓国や中国より複雑だという意味でなら、そう言ってもいいと思う。とくに、第二次世界大戦を戦って、払った多くの犠牲からは学んだものが多かった。
 わたしたちが学んだのは、その間の詭弁や詐術(そういいたければ論理と言ってもいい)が、どうあろうと、国家を国民に優先させてはならないということだった。国家に国民を縛らせてはならない。国民が国家を縛らなければならない。
 そもそも国民の総体として国家が存在しているにすぎず、国民すべてを統合する、あたかもそれ自体ひとつの人格としての国家が存在するわけではない。
 先日、靖国について安倍晋三首相が
「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ」
と発言した。
 これはたしかに正しいように聞こえる。すでに書いたように、出自を質せば、靖国はたしかにそれだけのものにすぎなかった。だが、本来はそれだけのことにすぎなかった靖国が、太平洋戦争中には、それだけのものだったかどうか、もし、それだけのものでなくなっていたとすれば、何が靖国を上書きしたのかについて、肝に銘じておかなければならない。
 「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表する」ためなら、なぜ、国会議員が大挙してマスコミのカメラの前でそれを行わなければならないのか、一人静かにお参りした方が本意にかなうはずではないだろうか。
 つまり、そのようにして、本来、「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表する」にすぎない靖国が変容していったのだし、また、彼らが変容させていったのだ。
 「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ」というのは、それを当たり前だと思うならどうぞご勝手に、という意味でなら正いい。風変わりな信仰を持ちたければどうぞという意味である。それをしない人間は非国民だというなら冗談じゃないといわせていただく。
 ここで、冒頭に戻らせていただくと、韓国や中国が後進国だなと思うのは、日本の政治家が靖国に参拝するたびに大騒ぎするのは、結局、彼ら自身も、第二次大戦中の靖国がそうであったように、19世紀的な国家観から自由になっていないことを証明している。靖国が、‘本来’戦没者の慰霊にすぎないのは確かなのだから、誰が参拝しようが‘本来’ほっとけばいい。だけど、ほっとけないのだ。中国や韓国の政治家自身も国家主義者だから。
 最初の話に戻るけれど、橋下徹には、そういう古色蒼然とした19世紀的な国家観のない政治家を期待していた。住民を主体として考えるならば、都市が国家に隷属しなければならない理由は‘本来’ない。そういう国家の枠を超える、視野の広い地方政治家があらわれてもいいはずだと思ったの。