プロパガンダについて

knockeye2013-05-25

 このところ従軍慰安婦のことばかり書いている。そろそろおわりにしなければいけない。なんといっても、私自身は、従軍慰安婦どころか戦争についてさえ何も知らない。そして、もはや戦争について知っているといえる人たちは少なくなった。にもかかわらず、いま、従軍慰安婦の問題でこれほど多くのひとたちが感情的になるのは、そうして語られていることが、実は戦争の問題ではないということを、よく明らかにしていると言えると思う。
 誰もが心の中に偏見を抱えている。女は男に、韓国人は日本人に、日本人は韓国人に、アメリカ人は日本人に、日本人はアメリカ人に、キリスト教徒は仏教徒に、仏教徒キリスト教徒に、キリスト教徒はイスラム教徒に、すこしずつ偏見を抱いている。そして、その偏見を第三者に真実だと信じてもらおうと、なにより、自分自身で真実だと信じようとして、言葉を弄ぶ。
 今回の橋下発言から、マスメディアで飛びかった言葉のほぼすべてはそうしたものにすぎなかったとわたしには見える。
 先日も書いたことだが、今回の橋下発言のポイントは、安倍首相が侵略の定義を言ったのに対して、「侵略はみとめなければならない」という点だとわたしには聞こえる。その但し書きとして、米国や韓国のいうことを何から何まで鵜呑みにして責任をおっかぶるのは不誠実な態度だといったにすぎないのではないか。
 例によって橋下徹バッシングに余念のない今週の週刊文春に、橋下市長の慰安婦発言を書いた政治記者の談話というのが載っているのだが、「言ったままを書いただけなので誤報もくそもない」とあるが、わたしは、言ったままを書いてもウソにすることは可能だと思う。むしろ、「言ったまま」を書けばそれが真実なんだという意識の低さが、この国のマスコミが‘マスゴミ’と呼ばれるゆえんなのだろう。
 村上春樹の「卵と壁」のたとえでいえば、橋下徹とマスコミとどちらが壁でどちらが卵か微妙だと思うと書いたけれど、ただひとつだけ確かなことは、従軍慰安婦のかたたちはまぎれもなく「卵」だということ。この人たちは、今のわたしたちが空気のように当然のこととして享受している平和な日常を、日本軍によって永遠に奪い去られた。そのような痛ましい悲劇は二度と起こってはならないし、二度と起こらないようにすることは、いやしくも政治家を名乗るものが心に銘じなければならない最大のつとめだろう。
 ただ、問題は、いま現在、韓国や中国で主張されているような反日プロパガンダを唯々諾々と受け入れることが、はたして、その務めに叶うことになるのかということ。たとえば、ソウル日本大使館前に「従軍慰安婦」像を設置するようなことは、正しい行いと言えるだろうか。それよりは、橋下徹が主張しているように「証拠を示してほしい」という方が悲劇をくり返さないために、まっとうだとわたしには思える。
 これもくりかえしになるが、従軍慰安婦の存在が悲惨であったことは否定しようがないが、それがいかに悲惨であろうとも、戦争という大きな悲惨の一小部分であることもまた事実なのだ。それがまるで、従軍慰安婦の悲惨さが戦争の悲惨さよりも大きいかのように言われているように思うのは気のせいだろうか。まるで、戦争は英雄的な行動で、従軍慰安婦の問題がそれに汚点をつけているかのようなニュアンスを感じて、そこに不安を覚えている。
 元従軍慰安婦の人たちの行動を見ていると、日本に謝罪させるためならもういちど戦争になってもかまわないと思っているかのようだ。正義の回復を願っているとはとても思えない。ただ復讐を願っているだけだと思う。もしそうであるならば、失礼ながら、残酷な言い方だが、その精神は尊敬されないだろうと思う。