プーシキン美術館展

knockeye2013-07-21

 先週、プーシキン美術館展に行った。初日か、2日目で、すごい行列に驚いた。
 美術展の行列は予測がむずかしい。とりたててどうこういう展覧会でもなかったとおもうけれど、おととし震災の影響でキャンセルされた、お待たせの感じが、‘おあずけ’というか‘焦らし’というか、なんだかんだいって世間一般そういうのに弱いという証拠だろう、Mならずとも。
 それと、やっぱり、ルノワールかな。

 でも、ルノワールについては、三菱一号館で春にやっていたクラークコレクションの方がボリュームがあったのですけれど、ようするに、このジャンヌ・サマリーがいい女なんでしょう。カワイイ。
 こうした絵に魅了されていたコレクターたちが、イタリア旅行から帰ったルノワールが描き始めた、プロポーションを誇張した裸婦を観たときのショックはよく分かる。
「ソーセージの色をした膨らんだ手足」
と、スターリング・クラークは言っていたそう。この絵のような夢見るような綺麗さを前にすると、たしかに、ルノワール後期の裸婦は謎だな。
 プーシキン美術館のコレクションは、ロシアの大富豪のコレクションが元になっているので、画家に注文して描かせているものもある。
 アングルの<聖杯の前の聖母>もそんなひとつ。後ろに描かれている男性は注文主であるそうです。

 アングルの絵を観るときの楽しみは、たとえば、この絵で言えば、聖母の右腕。その右腕の角度はホントにそれで正しいか?。正しいか正しくないか微妙な感じがぞくぞくする。
 アングルの絵は、すっごくリアルなのに、すっごくプロポーションが狂っている絵がいくつかあって、特に<グランド・オダリスク>が有名だが、これは、画家が効果を狙って意図的に歪めているのだろうと思われてきたが、最近(といっても今世紀の初めくらいか)、デビッド・ホックニーが『秘密の知識』という本を書いて、どうやらアングルは、カメラ・ルシーダという光学機器を用いて絵を描いていたため、あんな風に歪んだらしいという説を発表した。面白そうなので読もうと思ったけれど、値段を見てあきらめた。
 今回の展覧会でよかったなと思ったのは、モーリス・ドニの<緑の浜辺、ペロス=ギレック>

 ドニの絵は今まで「何なの、これ?」という感じで、一度もピンと来たことがなかったが、今回のこれは初めてよいと思った。濃密な明るさ。東洋の画家は、空気の密度をあのように濃く捉えないと思う。水墨画は余白を用いて、無限とか永遠を表現するし、それはまた、わたしたち東洋人には、あるいは仏教徒には、すんなりと受容できる表現だが、たぶん、キリスト教徒にとっては、無は偽りでしかないのだろう。エーテルとかの架空の概念を用いてでも、世界が充満していると考えるのが、キリスト教徒の感覚なんだろうな、といったことが、このドニの絵を観ていると自然に納得できる。
 だから、印象派の登場が衝撃的だったわけだ。ものをあるかのように描かず、見えるままに描く、主客の逆転は、わたしたちが今想像する以上に。
 このゴールデンウイークに帰省したさい、姫路の美術館でエミール・クラウスとベルギー印象派を観た。先週まで、東京ステーションギャラリーに巡回していたものと同じだと思う。
 エミール・クラウスは、以前、Bunkamuraの展覧会で見かけてよい画家だなと思ったのだけれど、今回まとめて観て、考え込んでしまったのは、たしかに技巧は圧倒的にうまいんだけど、スーパーリアリズムというにはタッチが荒すぎるし、印象派というには、逆に客観的すぎる。だから、今の目で見ると、妥協的、折衷的に見える。 

 ここには狂気が足りないと見えるわけである。
 エミール・クラウス展を観てからずっとモヤモヤしていたことが、なんとなく片付いた気がする。