北大路魯山人展

knockeye2013-09-21

 茅ヶ崎美術館に,北大路魯山人の展覧会「魯山人の宇宙」を観にでかけた。
 この美術館は、JR茅ヶ崎駅から、サザンビーチに向かって歩いて行くちょうど中間くらいにある、高砂緑地という,元は川上音二郎の別荘だった庭園に隣して建てられていて、茅ヶ崎駅から歩いて行くと、その庭園の裏木戸から入っていくことになるので、感覚としてはその庭園の中にある感じ(いや、あるのかな)。松籟庵という茶室もあり、姿のよい百日紅があったりする。
 北大路魯山人が「美食倶楽部」、「星岡茶寮」にかかわっていた大正の終わりから昭和の初めごろ、日本の美をめぐっては、何かちょっと華やいでいて、洗練といいたい艶を帯び始めていたように思う。だいたい「美食倶楽部」なんて、そういうのちょっと始めましょうよ、っていう雰囲気になる人の集まりがあったというのは、吉田健一の小説の世界を思い起こさせる。設定はちょうど同じ頃だし、魯山人吉田茂とも知り合いだったらしいので、「美食倶楽部」の空気は、吉田健一も呼吸していたかもしれない。それにしても、吉田健一が旨いものについて書いた文章はやはり大したもので、もしかしたら、今それを思いだしただけなのかもしれない。
 たしかに、昭和初年代は昔だけれど、今回の美術展で展示されている器も、「美食倶楽部」や「星岡茶寮」で使われていたものなのかと思うと、国宝とかいわれる器であっても、器は使ってこそのものだなと実感するのは、魯山人のその器を観ていると、使いたいなという気持ちになるし、こんな器に盛るのであれば、料理も、ただおいしいとか、栄養のバランスがいいとかでなくて、‘美食’と呼ばれるにふさわしいものでなくてはならないだろうなと思える。魯山人の器は、何とか展覧会とかなんとかトリエンナーレとかで、賞のひとつも獲ったろかみたいな臭みが一切ない。じっさい、魯山人は晩年、織部焼きの陶工として人間国宝にという話があったそうだが、お断りしたそうだ。作品を観ていると、なるほどそれは断るだろうなと納得する。
 wikiによると、魯山人は、「母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。」6歳になるまで,自分が何ものなのかのよりどころがないという経験は、決定的だろうなと思う。横山やすしが自伝に書いているが,彼も長ずるまで生みの母が誰か知らなかったし、どうしてという経緯については、最後までわからなかったようだ。
 魯山人の場合は、二十歳の時に生家の北大路家の由来を知り、そして、生母が東京にいることを知り上京する。生母には冷たくあしらわれたそうだが、上賀茂神社に代々仕える神職の家柄であったという、存在の根っこを手にしたことのほうが意味が大きかったように見える。
 昭和11年に星岡茶寮を追われる羽目になるについては、いろいろな事情があるだろうけれど、すくなくとも終始一貫している、美についての妥協のなさは、魯山人にとっては自己証明だったはずだと思えば、それは譲れるはずはなかった。
 そうとうの毒舌家であったには間違いないだろう。なにしろ、ピカソに絶賛されたにもかかわらず、魯山人の方は、ピカソを「色がきたない、線がへたくそ」とぼろくそに言っている。ピカソといっしょに写っている写真があるのだけれど、こんなに気持ちが顔に出る人もめずらしいと思った。
 ピカソの陶器も見たことがあるが、たしかにピカソはあれで食事するつもりは毛頭ないだろうから。