「暗殺者たち」

knockeye2013-09-25

暗殺者たち

暗殺者たち

 黒川創という人は、京都の人。これは『かもめの日』という小説を読んでいたときに、‘これは京都だ’とわかった。あのかもめはゆりかもめだし、あの川は鴨川。
 関西を離れて長い私だけれど、ネットにあふれかえっている情報に流されないでいられるのは、おそらく、関西の視点を、たぶん伏流として感じ続けているからということはあるだろうし、各地を転々としてきた功徳で、東京の人がうかつに(としか私には思えないのだけれど)、口にする‘地方’のことも、そこに生活してきたものとして捉え直すことができる。
 こっちで「地方は疲弊している」とかいう言葉を聞くたびに「えぇっ?」と思ってしまう。富山に住んでいるときに親しくしていた、某建設会社の社長の次男坊が、あるときふいに「新幹線はやっぱりこないとだめみたい」と言ったことがあった。‘おや、意外なことを言う’という感じだった。ふだんはその人が社長の息子だと忘れているので。
 で、関東で暮らし始めてから,テレビの人が‘地方は疲弊している’とか言うと、そのことを思い出す。‘地方’のどの辺の層の意見なのかな、って思うわけ。「格差社会」なんて言葉がバカバカしいと思うのは、‘地方は疲弊している’という意見そのものの中にすでに‘格差’が存在している。その意見は、はっきりとある階層の意見にすぎない。だから、‘小泉のせいで格差社会になった’は、はっきりとその層の意見なのだろう。
 『暗殺者たち』は、満州日日新聞に夏目漱石が寄稿していた「韓満所感」という文章を黒川創が発見した、いままで全集にも採録されていなかった、ということで話題になっている。夏目漱石が韓国や満州を訪ねた直後に伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺される。
 夏目漱石については、こないだの石原千秋につづいてまたなのだけれど、うっかり最近気が付いたのは、夏目漱石という人は、官費でイギリスに留学していたにもかかわらず、ほとんど独学なんですよね。当時の日英の経済力のちがいがもたらした結果だけれど、漱石が当時の学説なんてものを持ち帰らなかったことが、この人を作家にしたんだと思う。
 明治という時代のひとつの特徴は、伊藤博文のような明治維新の志士たちがまだ生きていたということで、この本によると、暗殺されたハルピンに,なぜ、伊藤博文がいたのか、じつは誰も知らないのだそうで、明治の政治はまだ革命政権で、そのときあった表と裏の二元的な政治のあり方が、結局その後の軍部の暴走につながるわけだし、現在の官僚が政治の決定を軽んずることも、このひずみが放置されているからだ。
 官僚を政治の決定に従わせなければならないし、そのためには、政治の決定に民意がはっきりと反映されるようにしなければならない。その意味では、民主党マニフェスト選挙という手法は有効だったはずだが、小沢一郎が、選挙後一週間でマニフェストを破棄したのだし、マスコミはマスコミで「マニフェストにこだわるな」とか言い出した。そういうことを「現実的」と感じるとすれば、それは「現状」がそうであるにすぎなくて、その現状の源流は、この明治の政治の二面性にあるんだろう。日本の政治家が国際的な発言力を持てないのは民意を背景にしていないからだ。政治に民意が反映しない国は衰微していくだろうと思う。
 暗殺は、こうした民意と政治の乖離を解消するメカニズムで、選挙は、こうした暗殺が、果てしないテロへ膨張しないための、暗殺の代替行為といえるだろう。なので、選挙が有効に機能しないことが明らかになれば、暗殺はメカニズムとして動き出すだろう。中曽根康弘が「暗殺を夢想したことのない政治家は信用しない」みたいなことをいっていたのを思い出す。
 黒川創という人の書き方は、ジョン・アーヴィングがこの本を読んだら、これは小説ではなくて、小説の構想メモだ、というかもしれない。これだけの材料集めてどうしてこういう書き方なの?っていう。しかし、わたしはジョン・アーヴィングではないわけだから、ほんとにジョン・アーヴィングがそう言うかどうか知らないし、黒川創にしてみれば、「ほっとけ」っていう。
 黒川創と世代を共有しているなと思うのは、『日高六郎95歳のポルトレ』のときもそうだけれど、韓国にたいするスタンスとして、今の大統領のお父さんの時代、また、それにつづく全斗煥の時代、在日の朝鮮人が韓国に不当に勾留されて、拷問されていたという記憶がいまでも鮮明で、黒川創のように、韓国の監獄にまで大学の友人を訪ねていったケースはまれだろうけれど、いまの韓国の大統領はその軍事独裁者の実の娘なのだ。その部分を簡単に受け入れすぎていると思う。わたしは、金大中死後の韓国は少しおかしくなっていると思うし、従軍慰安婦の問題は、そういう文脈もきちんとおさえながら対応していくべきなのは当然だろう。
 先日、訪ねた魯山人展に三島手小鉢というのがあった。三島は、お茶の世界で使われてきた呼称だけれど、今はこれを粉青沙器という。‘三島’だからお茶が旨いので、粉青沙器では飲む気になれない。
 日本海を東海と呼べ、旭日旗を禁止しろ、安重根を顕彰しよう、まではべつにいいけれど、万葉集を全編ハングルで読もうとなると、これはmadとしか思えない。万葉集の一部がハングルに読めるのは事実らしい。交流があったのだし、サザンの歌の一部が英語みたいなことだが、でも、全部ハングルなわけがない。
 こないだ週刊ポストに韓国の大学教授が慰安婦の実態について、慰安所の管理人だった人の日記を証拠として証言していたが、これは、韓国の状況を憂慮してのことだろうと思う。印象的だったのは、「韓国人は植民地時代を否定するな」と言っていたこと。つまり、この大学教授には、今の韓国の慰安婦をめぐる言論が、反戦ではなく反日を動機としていると見えている。
 韓国のひとたちが植民地時代を否定したい気持ちは分かる。分かりにくいのは、慰安婦問題について、あやふやな知識だけで、‘とにかく謝れ’で盛り上がっている日本人の方だろうが、しかし、実はこれも分かる。これは、島国根性の百姓根性で、村のなかの誰かひとりを人身御供につるし上げれば、それで片がつくという意識がDNAにすり込まれているのだ。つまり、韓国のナショナリズムと日本のムラ社会意識が奇妙に呼応し合ってる、かなりバカバカしい見世物だと思う、この慰安婦騒ぎは。