奴らを通すな

knockeye2013-11-20

 新聞の書評欄に『奴らを通すな!』という本の紹介があった。ちょっと引っかかるものがあったので検索してみると、YouTubeをはじめ、いろいろなサイトで、在特会のデモが、自分たちの町に立ち入るのを阻止した人たちがいたことを、遅ればせながら知ったわけだった。
 それで、うっすら思い出したのは、だれかが、在特会の横断幕を破って警察に逮捕された、とかの新聞記事があって、それをブックマークしていたのだったが、きっと、それも関係があったのだろう。
 しかし、今さらながら、新聞というメディアの報道姿勢には首をかしげる。「だれかが在特会の横断幕を破った」がニュースなの?。購読者としては、在特会のデモに通せんぼをしたした人たちがいるっていうことの方を教えて欲しかったけど、それは報道しないわけ?。
 福田和也が言っていたけれど、もし、在日外国人が不当に優遇されていると訴えたいならば、国会か、官庁の前でデモすればいい。それを、ふつうの人たちが暮らしている生活の場でやるのは、暴力以外のなにものでもない。
 在特会レイシストでなければ、何をレイシストというのか、私は、ああいうレイシスト集団が野放しにされて、大手を振って歩ける日本の状況は異常だと思う。
 このYouTubeのひとたちみたいに、自分たちの町に、レイシストのきたない言葉を響かせたくないという思いが、「公共」という意識なんだと私は思う。
 自分と自分の家族が暮らす町という思いが公共で、本来その延長線上に政治があるべきだが、日本は官僚の意向が公共意識より優先されることが常だった。
 日本でこれほど官僚の力が強くなってしまったのは、19世紀末に、先進国に対する遅れを取りもどそうとしたということにすぎないので、本来一時的な方便だった官僚主導が既得権益化したことで、壊滅的な打撃を被り続けてきたのが、実際のところ、日本の近代史の概略といえるだろう。
 第二次大戦も、バブル崩壊も、原発事故も、そこに起因している。だから、今度こそ、市民の公共意識を官僚の意向の上位におくべきなのだ。なんといってもそれが本来あるべき姿なのだし。
 市民の公共意識を、喚起し、すくい上げ、政治に反映させていくのが、本当の政治家だろう。そのとき、政治家が使うべき武器は言論であるべきだ。
 言論をもって、国民に相対した政治家は、たしかに戦後の日本にはいなかったと思う。声で国民に呼び掛け、国民の声を喚起し、それを行動の規範にする、そうした、きちんとした政治家を日本人はまだ経験したことがない。
 小泉純一郎郵政選挙のときの演説にはその片鱗はあったけれど、しかし、充分だとは言えなかったと思う。その不充分さが、後の「格差社会」だの、「新自由主義」だのという、マスコミによる議論のすり替えにつながった。むしろ、日本のマスコミは、「言論」よりも、小沢一郎のような「腹芸」みたいなことを政治家の能力だと評してきた。それは「報道」本来の機能を考えれば、完全な自家撞着だった。
 国際社会が評価するのは「言論」であって「腹芸」は、「原則」よりも「空気」が優先される「なれ合い社会」の中だけでしか通用しない。
 今回の例でいえば、国際的な目で批判に晒されるのは、「差別」や「平等」という国際的な原則に照らして、日本人がどのように行動しているかということ。
 問題は「原則」なのだ。だから、「ちゃんとケイサツに届け出してデモしてます」みたいなことは、「原則」のレベルでは何の意味もない。むしろ、差別的な言葉の書かれた「横断幕を破った」人の方が「原則」のレベルでは評価されるだろう。この「原則」の重さに対して、日本人は鈍感すぎないか?。
 レイシストに抗議する人が逮捕され、レイシストが警察に守られる、こうした日本の行政のあり方が、世界的なレベルで失っているものの意味を、理解できる政治家も言論人もいないことが、日本にとって最大の不幸であり、危機であるだろう。



奴らを通すな!

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