ニューズウィークの「反ヘイト」記事

knockeye2014-06-18

 在特会ヘイトスピーチは、はっきり‘暴行’だとわたしは思う。法的に罰せられないのは、その暴行の被害者が誰かが特定できないためだが、わたしは、ヘイトスピーチは個人ではなく、公共に向けた暴行だと思う。
 しかし、公共とは何か、という定義は、実は曖昧でありえて、わたしが思うには、「公共とは何か?」という問いに対する答えこそが、その社会の市民の成熟度を表している。
 在特会の差別的言動が、公共に対する暴行であり、自分たちの社会の価値を侵害していると、多くの人が感じて、自然発生的な「反ヘイトデモ」へと結集していったことを、わたしは頼もしくも誇らしくも思う。その感じは、一年前の、ニューズウィーク日本版に、レジス・アルノーがコラムに書いた気持ちと、ほとんど同じだろう。

 そういうニューズウィーク誌で「反ヘイト」をとりあげるわけだから、マスコミがほとんど黙殺する現状で、最前線にいる人たちが、なにかしらの期待は抱いても当然だと思うのだけれど、すでにツイッターなどで話題になっているとおり、どうにもうすっぺらな記事だった。
 なにがよくないかというと、背景や経緯についての取材や考察がまったく記事にされていない、ほとんど‘印象批評’にすぎない。
 「レイシストをしばき隊」については、わたしの記憶では、最初は数人、十人に満たない数から始まったはずで、当初は‘しばき隊’どころか、反対に袋叩きにあってもおかしくない状況だったはずだから、そのネーミングに、その覚悟を読み取る想像力はあってしかるべきだった。
 わたしが個人的にこの記事の根本的な誤謬だと感じるのは、
‘反ヘイト団体は「反差別」という絶対的な大義を盾に・・・云々’というところ。
 「絶対的な大義」などというものは存在しない。むしろ、「絶対的な大義」という妄想が、差別を生む。「反差別」の行動は、大義を振りかざしているのではない。目の前にある暴行に抵抗しているだけだ。そして、そうした抵抗運動に、多くの市民が自然に参加していく、その意味では、反原発のデモと同じ意味で、それは、今の日本の市民社会のレベルを、やはり示していると、すなおに思うべきだろう。
 ただ、それでも、ニューズウィークは、これを特集するだけでも、まだましなのであって、主要な報道機関である全国紙や、とくにテレビは、ほぼ黙殺している。
 わたしは(古い話になるけれど)、松本サリン事件のときに、全国紙を読むのをやめた。いろんなことを後悔するわたしなのだが、この決断に関しては、その後ますますよかったなと思うばかりだ。
 大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』を読んだ。

「雨の木」を聴く女たち(新潮文庫)

「雨の木」を聴く女たち(新潮文庫)

 『水死』がすごくよかったので、吉本隆明が『マス・イメージ論』でとりあげていた、この本を読んでみた。
 『水死』に較べるとまだ若いなと思う、そのポイントは、‘レインフォレスト’は存在すると思うんです、でも、‘レインツリー’は幻想で、その文字通り徒な幻想には、あまり心惹かれず、『水死』ほどには挑発を感じなかった。