「ソーシャル・ネットワーク」

knockeye2014-07-12

 今更ながら、「ソーシャル・ネットワーク」を観た。歯医者の予約があったので遠出しなかった。
 歯科の常識ほど変化の激しいものもない。しばらくいかないでいるとついていけない。特に、歯みがきの仕方についてはどんどん言うことが変わって、今回は、歯茎から血が出るまで磨けと言われてしまった。そして、そのお手本をやってみてくれたので、口の中が血のにおいでいっぱい。
 「ソーシャル・ネットワーク」は、公開されたときから評判がよかったのだけれど、評判がよいと警戒してしまう癖があり、それから、facebookがどうも性に合わないということもあり、観にいかなかったわけだった。
 しかし、これはまず、アーロン・ソーキンの脚本がよい。テレビシリーズの「ホワイトハウス」の脚本家だそうで、密室劇と回想シーンの切り替えが手慣れている感じ。
 それから、台詞がおもっきり早口なのは、Wikipediaによると(ところで、最近Wikipediaにいくと、「私たちは独立性を保つため広告を掲載しません」だから、寄付してくれ、みたいなのが出てくるんだけど、広告で運営が成立するなら広告を出せばいい。有料にしたいなら、必要な会費を集めて、会員制にすればいい。今回のように、奇襲作戦で寄付を募るみたいなやりかたはあんましかっこよくないんじゃないか。広告を出すと独立性が保てないというのは、運営者の意識としてどうなんだろう。たとえば、東京電力が大口のスポンサーだからといって、原発事故について公平な報道ができないなら、そもそも報道機関としての存在価値がない。国から補助金が出ているからと言って、NHKが国の政策を批判できないという理屈はない。なぜなら、公平な報道機関だということを信頼してこそ国庫からカネを出しているのだから。)、ふつうの口調でしゃべると3時間を超えてしまうので、時間を圧縮するために早口にしたのだそうだ。脚本段階での台詞をできるだけ落としたくなかったんだろうと推測するけれど、観ていて違和感はなかったし、むしろ、情報量の多さが気持ちいい。たぶん現代人は、日常的にあれくらいの情報の洪水にさらされている。
 それがまた、マーク・ザッカーバーグを演じた、ジェシー・アイゼンバーグのほとんど無表情な演技とよくマッチしていた。受け取る情報量が多いので、表情がアウトプットする情報は複雑になり、ほとんど無表情になる。あれは、「相棒」の杉下右京と同じ芝居なんだろうと思う。何でもないようであれは発明なんだろう。
 この原作は、一応、ベン・メズリックの『facebook 世界最大のSNSビル・ゲイツに迫る男』になっているが、これもまたWikipediaによると、最初に大まかな企画書があって、そこから原作と脚本が同時進行的に書かれていったそうだ。
 テーマは、まさにソーシャル・ネットワークで、その骨格がしっかりしている。
 たとえば、最初にマーク・ザッカーバーグと、カノジョのエリカ(「ドラゴンタトゥーの女」のルーニー・マーラ、ちょっと気の強そうな女子がうまい)が話題にしているハーバード大学のファイナルクラブは、これもWikipediaによると、18世紀ごろから存在しているそうなんだけれど、映画の中のマーク・ザッカーバーグが言っているように、成績がよいかどうかとか、そういう価値とはまったく別次元の、そういうソーシャル・ネットワークが存在していて、合衆国大統領がその出身だったりする。お金とか権力が世の中を動かすのは事実だとしても、そのお金や権力が血液だとすると、それが流れる血管としてのそうしたネットワークが、ある意味では、その社会の価値観を決めているという、そういう世界観は、たとえば、フリー・メーソンとかがすぐに頭に浮かぶけれど、そこまで謎めいていなくても、たとえば、ついこないだ観たばっかりの「グランド・ブダベスト・ホテル」に描かれていた、ホテルのコンシェルジュ同士が作っているネットワークとか、中村稔の『私の昭和史』に描かれている旧制高校や、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』に描かれている大学の寮の文化とか、それはお金に換算できる価値以外の価値観として、かつてはたしかに存在していたものだった。
 世界最大でインターネットの最先端のSNSであるfacebookが、実は、そうした戦後自由主義経済以前の、伝統的なソーシャル・ネットワークを伏流にもっているということはとても面白い。
 それと、もうひとつは、ナップスターを作ったショーン・パーカーが、facebookの爆発的展開に一役買っていたことも面白い。
 ショーン・パーカーは、結局、ナップスターは音楽業界との戦いに勝ったという。「結局、つぶれたのに?」と聞かれると、「今、誰がCDを買う?」というのだ。
 つまり、ショーン・パーカーの立ち位置は、戦後自由主義経済の権化である、企業の価値観を破壊するものとして、ハーバード大学のファイナルクラブとはまた別の、ちょうど線対称の位置にいる、戦後自由主義経済のアンチテーゼなのだ。
 戦後七〇年、社会の価値観は案外に安定していたと言えるかもしれない。それが今流動的になって、一カ所に停滞していた価値を、ネットワークが横流ししようとし始めている。そういう社会のダイナミズムを、古いソーシャル・ネットワークと新しいソーシャル・ネットワークを対比的に描くことですごく魅力的な映画になっている。
 最後に、別れたカノジョ、エリカのフェースブックを見ているマーク・ザッカーバーグは、ソーシャル・ネットワークで人と人がつながること、つながらないこと、の不思議さを思わせる。 
 ラストに流れるビートルズの「Baby,You're a Rich Man」は、ジョン・レノンがブライアン・エプスタインをからかった歌だと言われている。ジョン・レノンはブライアン・エプスタインのマネージメントに不信感を抱いていた時期があったのかもしれない。ブライアン・エプスタインはショックを受けたようだ。彼は同性愛者で、ジョン・レノンに内心惚れていたということもあったようだし、この歌がブライアン・エプスタインが自殺する原因のひとつであったというと、ジョン・レノンにはちょっと酷なのだが、リバプールの人気者にすぎなかった彼らがあれよあれよという間に世界的なスターになったわけだから、そのマネージメントが並大抵でなかったことは想像に難くない。
 フェイスブックビートルズにたとえると、マーク・ザッカーバーグは、ブライアン・エプスタインであり、ジョン・レノンでもある。あの曲をラストに持ってきたのは心憎い。