みうらじゅん遅刻

knockeye2014-10-10

 週刊SPA!に、グラビアン魂というグラビアをさかなにみうらじゅんリリー・フランキーがうだうだ喋るページがあるのだけれど、その収録現場に、リリー・フランキーじゃなく、みうらじゅんが遅刻したらしい。
 それで、途中までリリー・フランキーの問わず語りになって、ひとりでダジャレを言うのもものすさまじいのか、グラビアカメラマンの品定めに話が流れて、西田幸樹が白眉であろうかと。それで今回のカメラマンは西田幸樹になっていた。
 私も西田幸樹のグラビアが好きだが、これは私にしては珍しくも、世の中の男性諸氏の多数意見と一致するのではないかと思っている。このカメラマンは、自然光でも、人工灯でも、光をまるでフランス料理のソースみたいに使う。全体にまんべんなく、ときにはアクセントを効かせ、と、そんな風に。
 たとえば、いま、BOMB.TVで公開されている杉原杏璃のグラビアが、まさに西田幸樹なんだけれど、たまたまブラウジングしている最中に、サンプルを見て、「あ、これ、西田幸樹だ」とわかってしまうくらい特徴的。
 わたくし、杉原杏璃はそんなにタイプではないんだけれど、リリー・フランキーも言っているとおり、西田幸樹が撮ると、誰でも何割増しか女子力が上がる。古い話だと、黒田美礼とか、遠野奈津子の写真集も、西田幸樹のがよかったと思います。
 リリー・フランキーが名前を挙げている他にも、平地勲、山内順仁週刊プレイボーイでたしか主任だった、中村昇なんかもぬめっとした色が好きだった。
 杉原杏璃は、32歳だそうだ。グラビアを見ながら時代を感じてしまうのもどうかと思うが、なぜこれが16歳の杉原杏璃ではないのか?という疑問が頭をもたげるのは、山口百恵は、20歳で引退しているので、篠山紀信加納典明が撮った彼女の水着姿は10代の頃のものであるはずだが、今のグラビアアイドルの写真は、結局、その頃の残響のようなものにすぎないと見えるからだ。
 当時、10代の男の子が、10代のアイドルの水着姿にときめくのは自然なことだと思われていたんだと思う。でも、それは自然なことでもフツーのことでもなかったらしいということが、今は、なんとなく分かってきてしまったからこそ、グラビアン魂みたいに、50代のおっさんが二人でグラビア鑑賞するなんていう企画が成立する。
 今の50代は、今の10代に、‘夢’どころか、‘フツー’ですらも示してあげられない。ただ、「これがフツーだ」というヤツは、あんまり信じられないぞと言ってはあげられるだけだ。
 今の朝日新聞叩きは、「異常だ」と言う人がいるが、何かを考えるときに、正常か、異常かを規準にすることが、とりもなおさず、差別である。私には今の朝日新聞叩きに、そうした欺瞞に対する苛立ちを感じる。
 神奈川新聞に、‘従軍慰安婦の調査研究に取り組む市民団体「『戦争と女性への暴力』リサーチ・アクションセンター」が日韓の大学生約4千人を対象に行った意識調査’というのがあった。
 いまだに「従軍慰安婦」という造語を使い続けるこの人たちの態度に、なにかしらの傲岸さを感じないわけではないが、日韓の学生たちを対象にしたアンケート結果自体は興味深かった。
 ただ、

 慰安婦を強制連行したとした「吉田証言」を朝日新聞が虚偽と判断したことで、強制連行自体が虚偽だったかのような言説が一部メディアで繰り返されているが、もともと吉田証言は河野談話でも歴史研究でも根拠として採用されてきたわけではない。

という文章には、引っかかりを感じた。
 「吉田証言を朝日新聞が虚偽と判断した」ことから「強制連行自体が虚偽であったかのような言説」が「一部メディアで繰り返されている」とした文章と、「吉田証言は、河野談話でも歴史研究でも根拠として採用されてきたわけではない」という文章を「が」でつないでいる。この「が」は曖昧で、レトリックのにおいがプンプンしている。
 なぜなら、そもそも河野談話は「強制連行」を認めていないので、この「が」が逆接の接続助詞として使われているとしたら、ここにあるのは、河野談話や「歴史研究」というこれまた具体的な内容を欠くあやふやな言葉が、あたかも強制連行を認めているかのように、印象を誘導するレトリックだと言われても仕方ないだろう。
 ただし、これが、さらにレトリックであるのは、「が」は、つねに逆接を示すとはかぎらない点で、もし読者がその意味を逆接にとったとしても、著者はその責任を逃れられる点にある。
 姑息な文章だが、こうしたレトリックの積み重ねが、やがて、捏造となり虚偽報道になるのだと思う。
 結局、新聞記者の文章とは、こうした様々なレトリックを駆使して、世論を誘導していく欺瞞にすぎない。こういう卑しい文章を信用しないことは、何が正しいかを見極めたければ、すくなくとも大事なことだと思う。