町田の国際版画美術館に谷中安規の回顧展を観にいった。
この人の版画にはごく若い頃から親しんでいる。それはたぶん萩原朔太郎が好きだったから、恩地孝四郎、田中恭吉といった同時代の版画家とともに、この人の作品も自然に目にしていたのだろう。なんといってもイメージは強烈だ。
しかし、「谷中安規」の訓みは、つい最近まで「やなかあんき」だと思っていた。「谷中」は上野谷中の「やなか」だが、音が「夜中」に通じる。つまり、「東京」と「夜」をダブルイメージとして持つ苗字に、「あんき」は疑心暗鬼の「暗鬼」にかけて、都会的でいて、なんとなくおどろなイメージが絵の感じと合っている、うまいネーミングだなと思っていたのだが、実は「たになかやすのり」だそうだ。
わたしは人と会話しないせいか、この間違いはよくある。伊東静雄の『夏花』を「なつはな」ではなく「げばな」と訓んでいたし、十代のころ、梶井基次郎を「かじいきじろう」と言って、「‘もとじろう’だろっ」て、これはつっこまれた。
その「谷中安規」だが、絵から想像する以上にユニークな人だったらしい。
特に驚いたエピソードは、31歳のころに、居候していた友人の妹に失恋したとき、失意のあまり刃物を持って、踊っていたそうだ。「失恋して、刃物を持って」までは、フツーかもしれない。でもフツーの人の行動は、そこから踊りには向かわない。しかも、夜ごとに踊っていたそうだ。千葉のお寺だったんだけど、その本堂の内陣で(内陣ってお坊さんがお経詠むところ)、月の光を浴びて踊っていたらしい。
その後にも、師事していた永瀬義郎の家を訪ねていたとき、不意に失恋のことを思い出して踊ったらしい。踊り終えた後、「女をやっつけた」と笑っていたそうだ。
踊りについては、ほかにも、ダダイストの詩人、高橋新吉も、谷中が街中で人目など一切気にかけずに踊り出すのを見たことがあるそうだ。
私の考えでは、これは、コミュニケーション不全にすぎないと思うが、それにしても、それが「踊り」という形式で表出されるのは、今の日本人からすると、かなりめずらしいと感じられる。
ただ、谷中の踊りについて永瀬義郎はこう書いている。
「彼が再び我々の方に身体を向けた時には彼はもはや一人の立派なダンサーになつてゐた。事実、僕は彼が空間に次から次へと作り出すフォルムと線の躍動に魂をすつかり吸ひつけられて了ったほど、彼の舞踏は天才的の処があつた。」
また奇行という意味では、旧友が経営する書店に居候していたときは、夜になると店に下りて、本棚の本を下ろし、何か木彫していたそうなのだ。ただ、これは、居候のお礼に店の装飾をしていたという意味らしいが、どうも、それは旧友がそう受け取ったにすぎないようにも聞こえる。
内田百けん(門構えに月)は、谷中安規を「風船の繋留索がしよつちゆう切れて、どこかを浮動する」「風船画伯」と名付けた。内田百けんの『王様の背中』という童話集に、挿絵画家として紹介されたのが、出会いであったそうだ。
谷中安規が入れ込んで出版が予定を半年も遅れ、内田百けんは挿絵なしにしようかと考えたそうだが、できあがった作品を見て、「さながら谷中安規版画集の趣がある」と気に入って、その後、挿絵や装幀を任せるようになった。
谷中安規を内田百けんに紹介したのは佐藤春夫で、彼の短編小説『FOU』に谷中が寄せた挿絵も展示されていたが、これは谷中の、挿絵本を出したいという求めに応じて、佐藤春夫が過去の作品からこれを提供した。佐藤春夫は「谷中の天馬が拙作の世界から自由に踊り出して谷中自身の世界の消息を伝へてゐる」とはしがきに書いているそうだ。谷中安規の挿絵が目的で出版された本なのだ。
駒井哲郎の時にもちょっと書いたかもしれないが、近代詩人は画家とコラボして詩画集をよく出版したし、そうでなくても、萩原朔太郎の『月に吠える』というと恩地孝四郎と田中恭吉の版画が頭に浮かぶ。あるいは、夏目漱石と中村不折とか。これに較べると、そもそも、本に対する思い入れが、今の出版界には貧弱だと思う。
そういう意味では、こないだの万城目学(そういえばこの人の訓も「まんじょうめ」だと思ってたな)の『とっぴんぱらりの風太郎』の電子書籍に、中川学の挿絵がコラボして出版されたのは電子書籍の可能性として面白い試みだったと思う。
村山知義や前衛グループ「マヴォ」との関わりも、図録では指摘されているが、私はそこはちょっとわからない。舞踏とドイツ表現主義の影響という意味では、たしかに近いのかもしれないが、わたしは村山知義の絵がぜんぜん印象に残ってないので。
ただ、この昭和モダンというころの日本を知るにつけ、この国がこのあとあれほど馬鹿げた戦争にのめり込んでいくのが不思議でならない。ただ、政治と警察と新聞がクズだった点は今の日本と共通している。