「紙の月」

knockeye2014-11-16

 吉田大八監督を最初に認識したのは、西原理恵子原作の「パーマネント 野ばら」だった。菅野美穂主演で、その脇を固めた池脇千鶴小池栄子がすばらしく、母親役の夏木マリも含めて、登場人物全部がホンネ全開で生き生きしている、わかりやすく楽しめる映画だった。ついでに、関西人としては、町野あかりの活躍もうれしかった。たぶん関西人しか知らない、だけでなく、関西人以外には見せちゃいけないと思っていた女優であったが。
 次に観たのが「桐島、部活辞めるってよ」で、これは大ヒットしたから、あえて偏った言い方をすれば、未来が明らかに現在よりくすんで見える世代の、未来に現在を奪われまいとする‘あがき’の話だった。「パーマネント 野ばら」と違って、欲望が存在を支えてくれない。漂う虚無感が主人公の不在とよくかみあっていた。
 今回の「紙の月」は、宮沢りえのたたずまいでなければ、まったく違うものになっていただろう。
 主人公を始め、主要な登場人物が奇妙に、利他的というのか、行動のドライブの部分が他者に依存している。自分の欲望を信じきれなくて、他者の欲望に依存している。利他的であることで自己を正当化しているのではなく、利他的にしか欲望を保てない。
 ちょっと、西川美和監督の「夢売るふたり」を連想させられるが、まだ観ていないなら、比較してみても面白いと思う。「夢売るふたり」の主人公とちがうのは、「紙の月」の主人公には「夢」というほどの執着心がない。どうせ「にせもの」だと思っている。小林聡美宮沢りえの対決シーンに挿しはさまれていた「紙の月」のシーンはすごく印象的だった。
 話題になっている、宮沢りえのベッドシーンは、もっと間接的な表現でよかったかもと思った。というのは、この主人公の衝動が直接的な肉欲にある気がしない。こういう事件があるたび、女の性のあり方が究極のところで理解不能だと思う私にとっては、そこが描かれていない方が、むしろリアルだし、エロティックだったかと思った。
 ここまで書いてきて、だんだん思い出したけれど、「クヒオ大佐」も吉田大八監督だった。あのときの松雪泰子は、たしかに今回の宮沢りえと似ている。過剰に自滅的な女性に反応する質なのかもしれない。