仁清・乾山、デ・キリコ、ホドラー

knockeye2014-11-18

 日曜日は、「仁清・乾山と京の工芸 風雅の器」を観に、出光美術館へ。静嘉堂文庫美術館で仁清の「色絵吉野山図茶壺」を観てから、晴れた空と仁清が結びつくようになった。

 日曜日は、そんな快晴だった。
 政治の中心が江戸に移るようになってはじめて、ブランドとしての京都が意識されるようになった。仁清の焼き物には、京都のブランドイメージがことさらに強いように感じる。乾山になると、仁清ほど‘京都の命運をしょって立つ’といった気負いは感じられない。もはやどこか江戸風でさえある。
 仁清にはまた京都的であることを客が求めもしたのだろう。丸亀京極家に伝来した扇面の釘隠しなどはその極みに見えた。
 鶉を模した香炉もあったが、仁清の香炉では富山の百河豚(いっぷく)美術館に雉子をかたどった見事なのを観たことがある。あの美術館は富山でもすごい田舎にあるのだけれど、仁清のものは充実している。
 そのあと、JRで一駅移動して、汐留ミュージアムで開かれている「デ・キリコ展」を観にいった。
 ジョルジョ・デ・キリコは、バナナマン日村勇紀に似ている。

 デ・キリコは、晩年にセルフコピーをたくさん作っているそうだ。それについては、想像力の枯渇だといった非難もされた一方で、アンディ・ウォーホルはこれを賞賛したということだ。
 モチーフの反復は、たぶん絵画にとっては本質的にセルフコピーではないのだろう。マルタ・アルゲリッチが「自分のマネをしないこと」を心がけていると、先の映画で語っていたが、それは彼女が、おなじショパンを弾き続ける上で心がけていることなのだ。
 デ・キリコが、自分が紡ぎ出したマネキンのイメージをくりかえし描き続けることは、マルタ・アルゲリッチのいう「自分のマネ」をすることではないだろう。
 アンディ・ウォーホルにモチーフの反復が多いのはすぐに気がつくことだが、横尾忠則の絵にもそれは多い。柳宗悦が「絵よりも模様」の方が力強いといった意味のことを書いていたのを思い出す。図像を反復することで、絵はたしかに模様に近づいていく。
 何日か前に、上野の国立西洋美術館で開催されている、フェルディナンド・ホドラーの展覧会にも出掛けたのだが、この人がすごくユニークなのは、美をリズムだととらえて、たとえば風景画でも

 こんな風に、色彩のリズムで構成する。
 点描派が、風景を粒子で再構成したように、この人は、風景を色彩の波長で再構成している。
 もし何か美しいものがあれば、ひとつよりたくさんのほうがここちよいという、千利休とは真逆の考え方ながら、なるほどと納得させられるものがある。
 したがって、人物を描くときも、肉体の舞踏ととらえていた。フォルムでも色彩でもなく、動きをどうとらえるかを意識していたようだ。踊る人の絵に迫力があるし、人の動きを描くだけでなく、人物像をリズムとして反復して描いている。
 それに、意外な名前を見かけたのは、ルドルフ・シュタイナーの影響も意識していたそうだ。
 反復することは、中村一美や草間彌生の場合もそうだったけれど、画家にとっては本質的なことなのかもしれない。